
「オソロシドコロ」のイメージの変遷について
こんにちは、ゴールデンウィークは砲台案内の予定のエヌです。
さて、厳原町浅藻(あざも)の集落奥、龍良山(たてらやま)の南麓に、近年「日本三大禁足地」として注目を集めている場所があります。その名も
「オソロシドコロ」(八丁角)
テレビ番組「アンビリーバボー」や「クレイジージャーニー」などで紹介され、今やオカルトスポットの代名詞のようになっていますが、果たしてその実態はどうなのか、その変遷を紐解いてみたいと思います。
禁足地、日本最古のアジール(避難所)

15世紀の朝鮮の記録「海東諸国紀」(申叔舟)には、対馬の南北にある神山(龍良山と佐護の天道山?)について、
「山の草木や獣を獲る者はなく、罪人が逃げ込んでも、あえて捕らえることはない」(意訳)
と記録されており、古代朝鮮の「蘇塗(そと)」という祭祀習慣との関連や、浅藻の別名「卒土(そと)」との類似性が指摘されています。
大正時代、歴史学者の平泉澄(ひらいずみ きよし)は龍良山を訪問し、「日本最古のアジール(避難所。中世ヨーロッパの教会のように、世俗の法が及ばない聖域)」として紹介しましたが、その描写はおどろおどろしく、「禁足地」という言葉がぴったりです。
「樫の密林は鬱蒼として天日を遮り、朽ち果てた大木と深い落ち葉に埋もれている。怪鳥の声が響き、聞くものすべてが物凄く、鬼気迫るものを感じた」(意訳)
平泉は東大(国史学)を首席で卒業した秀才ですが、ルーツ(実家)は白山信仰の拠点であった神社で、その主観(霊感?)が多分に含まれているかも、と感じます。
オソロシドコロの変遷
古代からの禁足地
- 平安時代? 対馬で天道信仰が形成。信仰対象は、神山(天道山)および天道法師。修験道の開祖・役行者と事績が酷似しており、その影響が伺えます。
- 15世紀(海東諸国紀) 浅藻には15戸があり、人が住んでいた。龍良山は禁足地だった。
- 江戸時代(文禄年間) 「天道法師縁起」成立。
- 明治初期 浅藻は、南部の集落・豆酘(つつ)が所有する無人の浦だった。(15世紀以降に無人になった理由は不明)
浅藻に人が住み始める
- 幕末~明治、対馬まで出漁していた山口県・周防大島(すおうおおしま。民俗学者宮本常一の出身地)の漁民が豆酘の漁民を助け、浅藻に住むことを許可される。
- →豆酘の住民にとって龍良山周辺・浅藻はタブーの地で、浅藻への定住は心理的な抵抗があったらしい。
- →浅藻の住民(周防大島出身)は、「生き神様(明治天皇)の御代になり、天道法師も悪さはしないだろう」という認識。
- 大正時代 平泉 澄により、「日本最古のアジール」として報告される。
現地調査報告の相反するイメージ
- 昭和初期生まれ シイの実を拾う、サワガニを取るなど遊び場だった → 数十年ぶりに帰郷するとタブーの地になっていた
- 昭和20年頃生まれ タブーの認識はなく、その存在も知らず、中学卒業後離島。 → 上記に同じ
>> 2009年度対馬現地調査報告書(本田佳奈さん)
新興宗教・信者による整備

- 昭和15年頃 山下氏(女性)が満州に渡り、その霊感により数々の予言を的中させる。官憲のお咎めをうけることも。
- 昭和21年 山下氏が現・厳原町瀬に引き上げ、木曽御岳教に入信。
- 昭和36年 山下氏の夢の啓示により、信者が八丁角周辺の整備を開始。(石壇も一部整備?)
- 昭和55年 拝殿建設・公園整備。鳥居・記念碑建立。
浅藻住民の証言
- 子どもの頃、八丁角周辺の物を持ち帰り、父親に厳しく叱られた。夜中に親と戻しに行った。(Aさん)
- 祖父と一度だけ参拝した。足を踏み入れられない場所として厳しく言われていた。(Bさん)
- 子どもの頃、年始にお父さんと一緒に参拝していた。特に怖いという印象はなかったが、靴を脱ぐ、後ずさりしながら帰る(祠にお尻を向けてはいけない)などの作法があった。「インノコ(犬の子)」のおまじないはやったことがない。(Cさん)
- 怖いという話はなかったが、神様の山なので葉っぱ一枚持ち帰ってはダメと言われ、鳥居のところからは靴を脱いでいた(Dさん)
- (共通の意見として、親や周囲の人から)神聖な場所なので物を持ち帰ってはならない、靴を脱ぐ、敬意をもって接するように、言われていた。いわゆるタタリがあるといった「怖い」場所の印象はなく、沢がある手前の広場で子どもたちが遊ぶこともあった。
まとめ
- 中世には厳しいタブーの地として知られていた(浅藻には人が住んでいたが、いつしか無人の地となっていた)。
- 移住者にとってはそれほど恐ろしい場所ではなく、神様の山として敬意をもって接していた。
- 戦後、新興宗教の聖地となり、タブーのイメージが再構築された。
- 浅藻の住民にとっては「(タタリがあるような)怖い場所」ではなく、神様の山、神聖な場所のイメージだが、各家庭により捉え方には濃淡がある。
- 全国的には、平泉 澄の報告や、近年のテレビ・インターネットの影響でタブーのイメージが拡散した。
ということのようです。
私は、龍良山北面(裏八丁角)~山頂~南面(八丁角)を歩いたことがあるのですが、南面のオソロシドコロ周辺は伐採・植林が激しく、原始林の巨木と植林が混在しています。
重機ひとつで聖域の森すら簡単に破壊できる現実を目の当たりにすると、オソロシドコロ=結界として機能していたのは、人の心にある「畏怖」の念=信仰心だったと気づかされます。
太古の森は日本本土からはほぼ姿を消しており、龍良山にかろうじて縄文時代の西日本の森(シイ・カシ・ヤブツバキなどの照葉樹原始林)が残されているのは、豆酘の人々の強烈な信仰があったからこそだと思います。
龍良山が2000年くらい姿を変えていないとすれば(数万年前の氷期は植生が全然違っていたはずですが)、変わっていったのはそれを見る「人」の側なんでしょうね。
ぜひ一度、龍良山を訪問して、ご自身の眼で原始の森を見て、感じていただければ、と思います。
あ、私にとって龍良山は、毎年、発光生物観察の楽しみを与えるくれる、素晴らしい場所です(^^;)


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