歴史観光

悲劇の遣新羅使~対馬・万葉の旅その2~

2022/07/07

コースの概要

 万葉集(まんようしゅう)は、天皇・貴族から庶民・防人までさまざまな人々が詠んだ4500首以上の歌を集めた日本最古の和歌集です。万葉集全20巻のうち、巻20の防人(さきもり)の歌(巻13、14にも含まれる)、巻16の志賀荒雄(しかのあらお)の死を悼む歌、巻15の遣新羅使(けんしらぎし)の歌が、対馬と深いかかわりをもっています。万葉集に描かれた古代対馬の文学ロマンを味わうルートその2「遣新羅使編」です。

コース説明(時代背景)

遣新羅使

 663年の白村江の敗戦は大和朝廷に大きな衝撃を与え、その後、中央集権化、法律(律令制)の整備など、倭国が「日本」に生まれ変わる契機となりました。一方、新羅は朝鮮半島を統一したものの、唐の圧力を一身に受け、日本と共同で唐に対抗する方法を探るようになり、日本と新羅の間に使節(遣新羅使)が往来するようになります。その後、朝鮮半島北部に渤海(ぼっかい)が起こり、日本に使者を送ったため、日羅関係は三転、険悪な雰囲気に陥ります。

悲劇の遣新羅使について

 736年、阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)が遣新羅使大使に任命されましたが、新羅との関係悪化、前年の新羅使への対応(大宰府での門前払い)などを考えると、はじめから達成困難が予想された任務でした。卜部の雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)は壱岐で病没、継麻呂は外交使節としての礼遇を受けられず、帰路、対馬で客死します。副使の大伴三中も疫病により帰京が遅れるという有様でした。

 万葉集第15巻に、対馬までの途上で詠われた和歌が多く残されていますが、新羅入国後は歌が詠まれず、帰路、播磨に達し、ようやく五首が記録されます。いずれも執念にも似た望郷の念が詠われており、新羅入国後・帰路でただならぬ事態が起こったことを暗示しています。雪連宅満の死に際しては、「鬼病(えやみ)」と説明され、挽歌も残されていますが、継麻呂の死に関しては「卒す」とのみ記録され、挽歌も残されておらず、一説では、この外交使節の派遣は完全に失敗に終わり、継麻呂は対馬で自ら命を絶ったのではないか、と推測されています。

所要時間

観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
↓ 車で27分
玉調
↓ 車で8分
小船越(西漕手/阿麻テ留神社/梅林寺)
↓ 車で20分
和多都美神社
↓ 車で5分
烏帽子岳展望所
↓ 車で60分
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)

※(一社)対馬観光物産協会は、長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま にあり、厳原港から車で3分、対馬空港からは車で20分です。

コース図

 >>モデルコース・歴史観光 – (7) 悲劇の遣新羅使~対馬・万葉の旅その2~ (グーグルマップ)

動画 古代の港・西漕手(にしのこいで)

対馬観光映像集~歴史編~ (MOTTO! TSUSHIMA HISTORY)

※画像をクリックすると、西の漕手の映像(3:32~)が流れます。

ルート紹介

(一社)対馬観光物産協会

 観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
【所在地】 〒817-0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
【電話】 0920-52-1566
【アクセス】 厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分。

(1)玉調(たまづけ)

 美津島町久須保の万関橋を過ぎると玉調浦が見えてきます。対馬で遣新羅使一行をもてなす宴が開かれ、対馬娘子玉槻(つしまのおとめたまつき)が詠んだ歌2首が万葉集に残されています。

(2)西漕手(にしのこいで) ~万葉の時代の港~

 小船越は三浦湾から小さな丘を隔てて浅茅湾の西漕手に接しています。小船越の地名は古くからこの丘を船を引いて西に越え東に越えていたことに由来します。かつて遣隋使や遣唐使などは、九州本土から三浦湾に来て、西漕手に用意されていた別の船に乗り換えて大陸に向かったと言われています。

(3)阿麻テ留(アマテル)神社 ~太陽を祀る古社~

 梅林寺のすぐ近くにある、天日神命(ヒニミタマ)をまつる神社。日本書紀に登場するなど、この地域の歴史の古さを物語っています。
※阿麻テ留のテは氏の下に一。

(4)梅林寺 ~日本最初の寺~

 百済の聖明王から欽明天皇に献呈された仏像を仮置きするために建立された、日本最古の寺と伝えられているのがこの梅林寺。対馬を経由して日本にもたらされた仏教は、蘇我氏と物部氏の対立を引き起こし、やがて聖徳太子の登場により仏教国家・日本が誕生することになります。

(5)和多都美神社 ~海の女神・豊玉姫~

 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されています。本殿正面の5つの鳥居のうち2つは、海中にそびえ、潮の干満により、その様相を変え、遠く神話の時代を偲ばせる神秘的な雰囲気を漂わせています。

(6)烏帽子岳展望所 ~浅茅湾を一望~

 リアス式の波静かな浅茅湾を、360度ぐるりと見渡せる展望所。古来より日本と大陸を行き来する船たちが通った海域を一望することができます。

観光コース紹介(歌碑めぐり)

(1)対馬グランドホテル

百船(ももふね)の 泊(は)つる対馬の 浅茅山(あさじやま) しぐれの雨に もみたいにけり 巻15-3697
【現代語訳】 多くの舟が 泊まる津の島-対馬の 浅茅山は しぐれの雨に 黄葉してしまった
所在地:対馬市美津島町高浜

(2)対馬グリーンパーク

百船(ももふね)の 泊(は)つる対馬の 浅茅山(あさじやま) しぐれの雨に もみたいにけり 巻15-3697
【現代語訳】 多くの舟が 泊まる津の島-対馬の 浅茅山は しぐれの雨に 黄葉してしまった
所在地:対馬市美津島町鶏知

(3)対馬空港

竹敷(たかしき)の 玉藻(たまも)なびかし 漕ぎ出なむ 君がみ舟を 何時(いつ)とか待たむ 巻15-3705 (対馬娘子玉槻)
【現代語訳】 竹敷の 玉藻をなびかせ 漕ぎ出される君のみ舟を いつの日に逢えると待ちましょうか
所在地:対馬市美津島町鶏知

(4)万関橋(北側)

潮干なば またも吾れ来む いざ行かむ 沖つ潮騒(しおさい) 高く立ち来ぬ 巻15-3710
【現代語訳】 潮が干たら またわたしは帰って来よう さあ行こう 沖の潮鳴りも 音高くなってきた
所在地:対馬市美津島町久須保

(5)万関展望台

対馬の嶺(ね)は下雲あらなふ 神の嶺に たなびく雲を見つつ偲はも 巻14-3516
【現代語訳】 対馬の嶺には 山裾にかかる雲がない だから 神の嶺にたなびく雲を見ながら お前を心に深く想っていよう
所在地:対馬市美津島町久須保

(6)旧道大山入口(公衆トイレ・駐車場)

秋されば 置く露霜(つゆしも)に 堪えずして 都の山は 色づきぬらむ 巻15-3699
【現代語訳】 秋になると 置く露霜に 堪えかねて 都の山は 色づいたであろう
所在地:対馬市美津島町大山

(7)住吉大橋

紫の 粉潟(こがた)の海に 潜(かづ)く鳥 玉潜き出ば 我が玉にせむ 巻16-3870
【現代語訳】 濃い紫の粉潟の海に潜ってあさる鳥が、底の玉を拾い出したら、それを私の玉にしよう
所在地:対馬市美津島町鴨居瀬

(8)金比羅神社(鳥居横)

竹敷(たかしき)の うえかた山は 紅(くれない)の 八入(やしお)の色に なりにけるかも 巻15-3703
【現代語訳】 竹敷の 宇敝可多(うへかた)山は 紅染の 八しおの濃さ(べにばな色)に なったことだなあ
所在地:対馬市美津島町竹敷

(9)上見坂(かみざか)公園

竹敷(たかしき)の 浦みの黄葉(もみじ) 我行(われい)きて 帰りくるまで 散りこすなゆめ 巻15-3702
【現代語訳】 竹敷の 浦辺の黄葉よ わたしが行って 帰って来るまで 散ってくれるな決して
所在地:対馬市厳原町北里

遣新羅使の歌

対馬の島の浅茅の浦に着いて停泊した時に、順風に恵まれず、滞在すること五日。そこで美しい風景を見やり、各自悲しみの心を述べて作った歌三首 (1)(2)と(6)ほか一首

竹敷(たかしき)の浦に船を停泊させ、それぞれ心情を述べて詠める歌十八首 (9)(8)(4)(3)および下記三首ほか

あしひきの 山下光る もみち葉の 散りのまがひは 今日にもあるかも 巻15-3700 (大使)
【現代語訳】 (あしひきの)山陰も輝くばかりの もみじ葉の 散りかう盛りは 今日なのだなあ

竹敷の 黄葉(もみち)を見れば 我妹子が 待たむと言ひし 時そ来にける 巻15-3701 (副使)
【現代語訳】 竹敷の 黄葉を見ると いとしい妻が 待ちましょうと言った その時は来たことだ

もみち葉の 散らふ山辺ゆ 榜ぐ船の にほひに愛でて 出でて来にけり 巻15-3704 (対馬娘子玉槻)
【現代語訳】 もみじ葉の 散る山辺を 漕ぐ舟の 色(赤く照り映える舟の彩色)に引かれて 参上しました

おまけ・長屋王の怨霊と藤原四子政権の崩壊について

 645年の「乙巳の変」(その後の一連の政治改革が「大化の改新」)では、協力して蘇我氏を滅ぼした天皇家(中大兄皇子=天智天皇)と中臣鎌足ですが、その子孫の代になるとすさまじい権力闘争に明け暮れるようになります。鎌足の子・不比等の女子2人は聖武天皇の母・后となり、男子4兄弟(藤原四子)は権力を独占、天武天皇(天智天皇の弟)の孫・長屋王を自殺に追い込みます。(729年長屋王の変、藤原氏による陰謀説あり)
 737年、都に疫病が蔓延し、藤原四兄弟を含む政府高官が次々に病没し、長屋王の怨霊の仕業だと恐れられました。聖武天皇は衝撃を受け、大仏建立の詔を発します。
 737年は遣新羅使が帰還した年であり、天然痘に罹患した一行が都に戻り、天然痘の蔓延と藤原四子政権の崩壊、聖武天皇の仏教への帰依をもたらしたと考えられています。