対馬歴史年表(江戸時代)万松院

江戸時代

2022/07/07

江戸時代の年表

江戸時代

1606 国書偽造
 対馬で徳川秀忠及び朝鮮国王の国書の改竄が行われる。両国の間で板ばさみになった対馬藩によるものだが、国書・国王印の偽造は以前から何度も行われていた。

1607 江戸期第1回朝鮮通信使
 朝鮮との国交が修復される。徳川2代将軍秀忠の襲職を慶賀するため朝鮮通信使(467名)が来日。義智は国書を持参した通信使一行を江戸まで案内する。

1609 慶長条約(己酉約定)
 義智らの念願であった朝鮮貿易が復活。歳遣船定数20隻。

1615 宗義智没
 朝鮮出兵・関ヶ原の戦い・対朝鮮和平交渉など苦難の人生をおくった宗義智が死去。20代義成により、金石館の西に菩提寺・松音寺が建立される。1622年に義智の法号にちなんで寺号を万松院(ばんしょういん)に改める。堂宇は何度か火災に遭うが、仁王門は1615年建立のままで、安土桃山の様式を残している。

1617 第2回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(428名)が来日。宗義成、京都まで案内する。

1624 第3回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(300名)が来日。宗義成、江戸まで案内する。

1635 柳川一件
 宗家の重臣柳川調興(やながわしげおき)が宗家の国書偽造を告発。徳川3代将軍家光を巻き込んで騒動となる。家光の親裁により、調興は津軽へ流罪、宗義成はお咎めなしとされる。

1636 第4回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(475名)が来日。宗義成、江戸まで案内する。

1639 釜山窯開く
 幕府の命により釜山倭館内に釜山窯が開かれ、上納品が焼成される。1718年まで78年間開窯。

1643 第5回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(462名)が来日。宗義成、江戸まで案内する。

1647 万松院の移転
 万松院を現在の金石山(厳原)のふもとに移す。

1650 佐須銀山
 佐須銀山(厳原)が開かれる。

1655 第6回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(488名)が来日。宗義成、江戸まで案内する。

1657 対馬藩の黄金時代
 宗義真が封を継ぐ。朝鮮貿易の好調に支えられ、対馬藩は黄金期を迎え、大型事業が進む。

1659 阿須川の開削
 治水対策として阿須川の開削・河川の切り替えが行われる。

1660 城下の町割り
 城下(府中)の町割りが行われる。

1663 お船江の築造
 久田白子にお船江(藩船のドッグ)が築かれる。

1669 金石城の櫓門
 府中厳原の金石の館に櫓門を築き、金石城と称する。

1671 矢来(やらい)築堤
 矢来(防波堤)を築く。

1672 大船越の開削
 大船越(美津島町)の瀬戸を掘り切り、船が通る運河とした。

1678 桟原の新館落成
 桟原(厳原)に新屋形落成。

1678 釜山に新倭館落成
 釜山に10万坪の新倭館(草梁倭館)が落成する。~1873年まで(明治6年)まで。

1682 第7回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(475名)が来日。宗義真、江戸まで案内する。

1685 日本最初の小学校
 桟原の南に、子弟教育のための学校を建てる。これが日本最初の小学校となる。

1689 雨森芳洲の活躍
 雨森芳洲、対馬藩儒として朝鮮外交に活躍。

1700 対馬地図完成
 対馬の精密な地図・元禄国絵図が完成。幕府の命を受け、対馬藩が2年かけて製作したもの。

1700 地震発生
 対馬で地震が発生。石垣が崩れ、墓石が倒れる。

1700 全島の猪狩り始まる
 陶山訥庵の建議により猪狩りが始まる。1709年に対馬の猪は絶滅。

1703 鰐浦で役官使船が遭難
 朝鮮国の役官使船が鰐浦沖で遭難、対馬人4人を含む112名全員が死亡するという惨事になる。

1711 第8回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(500名)が来日。宗義方、江戸まで案内する。

1715 孝行芋の導入
 原田三郎右衛門が薩摩に潜入して甘藷を持ち帰り、栽培。孝行芋と称される。これが朝鮮に渡り、救荒作物コグマ(孝行芋がなまったもの)となったと言われている。

1717 久田で陶器製造
 久田村で陶器の製造がはじまる。

1719 第9回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(475名)が来日。宗義誠、江戸まで案内する。

1732 府中大火
 焼失家屋1299戸、寺院神社29、幕府より米1万石の救援を受ける。

1748 第10回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(475名)が来日。宗義如、江戸まで案内する。

1755 雨森芳洲死去
 対馬藩の政治・外交・教育・学問・芸術に心血を注ぎ続けた雨森芳洲が死去。享年88歳、長寿院(厳原)に眠る。

1759 府中大火
 府中大火。焼失家屋1000戸、幕府より1万石の救援。朝鮮人参の貿易資金8万両を借り受ける。

1764 第11回朝鮮通信使
 朝鮮通信使(572名)が来日。宗義蕃、江戸まで案内する。

1776 対馬藩の斜陽
 朝鮮貿易の不振により、幕府から毎年1万2千両の給付を受ける。

1780 幕府からの借入金肥大
 幕府への借入金返済を延期してもらう。総額15万2000両。

1785 藩主の替玉
 29代藩主宗義功が死去するが、替玉を使って藩主の死を隠す。

1793 防備体制の強化
 幕府の命により防備体制を整える(遠見番所)

1797 異国船の出没
 異国船が近海に出没し、釜山倭館にも兵を置く。

1811 最後の朝鮮通信使
 最後の朝鮮通信使(336名)が対馬に派遣される。本来は1787年の将軍家斉の襲封祝賀の際に派遣される予定だったが、幕府の財政難により延期。対馬での易地聘礼が打診されるが、朝鮮側が拒否。最終的に、1811年に対馬へ通信使が派遣され、これが最後の朝鮮通信使となる。この時代には、日朝双方財政難に陥っており、華やかな朝鮮通信使を演出する余力は残っていなかった。

1813 伊能忠敬府中へ
 伊能忠敬の測量隊19名が府中(厳原)に着く。1700年に作られた元禄国絵図を賞賛。実働46日間で対馬を測量する。

1844 今屋敷の防火壁
 府中各所に防火壁が築かれる。

1859 イギリス艦アクティオン号尾崎へ
 イギリスのアクティオン号が尾崎湾に入るが、薪水を補給した後、退去。

1861 ロシア艦ポサドニック号の芋崎占拠
 ロシアのポサドニック号が尾崎浦に入り、芋崎を占拠。長期滞留の構えを見せて井戸を掘り、家畜を略奪し、大船越の瀬戸で殺傷事件を起こすなど外交問題となる。幕府は外国奉行小栗豊後守を派遣するが進展せず、イギリスの圧力によってようやくポサドニック号は退去する。

1862 長州藩と同盟
 対馬藩と長州藩の間で対長同盟が成立。

1863 攘夷の勅許下る
 対馬藩に攘夷の勅許及びお沙汰書が下る。

1864 勝井騒動
 藩主・宗義達の叔父で佐幕派の勝井五八郎がクーデターを起こし、勤皇派100名を粛清。これに対し、勤皇派の平田大江が尽義隊を結成して抵抗。藩主・宗義達はまず勝井を、続いて平田を殺害し、事件を決着させる。この一連の騒動を勝井騒動といい、200名以上が犠牲になった。明治の回天期に、対馬藩は多くの有能の士を失うこととなった。