金田城

対馬の城

2021/04/07

対馬の城について

日本の城

 日本における「城」の原型は、水稲栽培の伝来とともに激化した土地をめぐる争いから集落を守るために誕生した、環濠集落や高地性集落とされています。

 7世紀の白村江の敗戦を契機に、九州から瀬戸内海周辺、近畿地方に古代山城が築かれ、また7~9世紀にかけて東北地方に築かれた城・柵(ともに「き」)は、蝦夷(えみし)に対する防御施設でした。

 中世から戦国時代にかけては、武力集団の居館の城塞化が進み、また山城が発展しました。

 その後、統治の不便さや、鉄砲の伝来による戦争形態の変化により、丘や平地に堀をめぐらせ高い石垣を築いた平山城・平城が主流となり、天守閣を備えた日本らしい城が完成します。城は防衛拠点であり、統治の象徴でもありました。

写真: 熊本城(2011年9月25日)

対馬の城

 対馬は、面積の89%が山地で、農耕地もわずかであるため、戦国時代においても日本国内の戦(いくさ)に巻きこまれることが少なく、城の数は多くはありません。

 ただ、7世紀年の白村江の戦いに際して築かれた古代山城・金田城(かなたのき)や、戦国時代末期の文禄慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)に備えた清水山城(しみずやまじょう)など、外国との関係が緊張するたびに、国土防衛あるいは対外進出の拠点としての城が築かれました。

 また、江戸時代には対馬藩主・宗氏の居城として金石城(かねいしじょう)・桟原城(さじきばらじょう)が整備されました。

写真: 金田城跡・東南角石塁

写真: 清水山城・一の丸

写真: 金石城・櫓門

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