元寇と倭寇~海の狼たちの攻防~
コースの概要
国境の島・対馬は、元寇など数度に渡り外国の侵略を受ける一方、前期倭寇の拠点となったり、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)では先陣として働くなど、常に日本と外国の緊張関係の影響を受け続けてきました。元寇・倭寇時代の対馬の攻防の歴史にふれるコースです。
コース説明(元寇と倭寇)
元寇では、日本は「神風」により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛んに朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮を建国します。
李氏朝鮮は「倭寇の巣窟」とされた対馬を襲撃(1419年応永の外寇)しますが、宗家のゲリラ戦により苦戦し、貿易の権限を対馬の有力者に与える懐柔策をとります。こうして、対馬と朝鮮の関係は、元寇・倭寇の争いの時代から、平和通行の時代へと変化していきました。その平和な関係は、三浦の乱(朝鮮の日本人居留民の暴動)などの紆余曲折を経て、豊臣秀吉の朝鮮出兵まで続くこととなります。
所要時間
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
↓ 車で25分
箕形(金田城跡)
↓ 車で10分
加志(元寇)
↓ 車で7分
尾崎(倭寇の拠点)
↓ 車で10分
阿連
↓ 車で20分
小茂田浜神社(元寇)
↓ 車で15分
上見坂公園
↓ 車で15分
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
※(一社)対馬観光物産協会は、長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま にあり、厳原港から車で3分、対馬空港からは車で20分です。
コース図
>>モデルコース・歴史観光 – (3) 元寇と倭寇~海の狼たちの攻防~ (グーグルマップ)
動画 小茂田浜神社
※画像をクリックすると、小茂田浜神社の映像(1:48~)が流れます。
ルート紹介
(一社)対馬観光物産協会
観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
【所在地】 〒817-0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
【電話】 0920-52-1566
【アクセス】 厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分。
(2)金田城跡(かなたのきあと)
663年、倭国(日本)軍は「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れました。大陸からの侵略に備え、浅茅湾の南岸にそびえる城山に金田城が築かれ、対馬は国防の最前線となりました。県道から金田城跡の外観(巨大な岩山)を望むことができます。
(3)越前五郎の墓
1274年の元寇(文永の役)では、対馬各地が戦場になりました。美津島町加志でも、宗資国(そうすけくに。宗家初代)の庶兄・越前五郎盛賢が討ち死にしたと伝えられています。この石塔は後世(室町時代)に供養塔として建てられたと考えられています。
(4)尾崎(おさき) ~倭寇の本拠地~
美津島町西部の尾崎地域は、倭寇の一大勢力であった早田氏の拠点の一つで、1419年朝鮮水軍による「応永の外寇」の際に真っ先に襲撃を受けました。早田氏は、朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持ち、国境を超えて海上を移動する海洋民でした。
(5)阿連(あれ) ~最澄漂着の地~
対馬西海岸の厳原町阿連地区には、天台宗の開祖である伝教大師・最澄が唐からの帰りに漂着しています。日本から大陸に渡るには、対馬・壱岐ルートがもっとも安全でしたが、新羅との関係が悪化してからは五島から一気に中国に渡る、より危険なルートを利用するようになり、遭難も多かったようです。
(6)小茂田浜神社 ~元寇の古戦場~
1274年の文永の役では、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が激戦の果てに全滅しました。
68歳であった資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
(7)上見坂公園 ~宗氏と阿比留氏の攻防~
今から1000年前、宗氏入島前は阿比留(あびる)氏が対馬を統治していましたが、伝説上の宗家初代・宗重尚(そうしげひさ)が豆酘に上陸し、阿比留平太郎を倒して支配権を奪取したという伝承があります。上見坂はその古戦場とされ、公園の背部には日露戦争に備えた上見坂砲台跡もあります。
オプションルート 「応永の外寇と佐賀三代」
応永の外寇により対馬と李氏朝鮮の関係は一時悪化しますが、倭寇の活動に悩む李氏朝鮮と、朝鮮貿易が生命線である対馬の間で、徐々に関係回復が模索されます。
宗家7代・宗 貞茂から8代貞盛、9代成就(しげもと)が峰町佐賀に府を置いた60年間は「佐賀三代」と呼称され、宗家が朝鮮との外交・貿易関係を確立した時代でした。
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
↓ 車で35分
小船越
↓ 車で25分
円通寺
↓ 車で60分
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
※殿様壇は場所がわかりにくく、山道を歩く必要があるため、このルートでは紹介しません。
(8)小船越(こふなこし)
倭寇の有力者であった早田氏(尾崎の早田氏と同族)の拠点のひとつで、応永の外寇の際、美津島町尾崎に続いて朝鮮水軍の襲撃を受けました。小船越は古代から対馬海峡東水道と浅茅湾をつなぐ重要な港でした。
(写真は小船越の西漕手(にしのこいで))
殿様壇(とのさまだん)
応永の外交では、尾崎・小船越が襲撃された後、豊玉町の糠岳(ぬかだけ)で宗家主力と決戦となりました。対馬では、殿様(貞茂)が糠岳で戦死し、この墓に眠っていると伝えられていましたが、実際は前年に病死していることがわかっており、この墓の主が誰なのかははっきりしません。
(9)円通寺(えんつうじ)
円通寺は宗家8代貞盛の菩提寺で、本尊は「銅造薬師如来坐像」(13世紀、高麗仏)、鐘楼の梵鐘は李朝初期の朝鮮鐘と考えられています。
通信使 李芸(りげい)功績碑
円通寺の前には「李芸」の碑が建立されています。李芸は日朝の外交交渉で活躍した朝鮮の外交官で、多くの被虜人の送還に功がありましたが、倭寇に拉致された李芸自身の母親には生涯会うことはできませんでした。
円通寺宗家墓地
円通寺の裏山の竹林に、一群の宝筐印塔(ほうきょういんとう)があり、無銘の供養塔であるため個々についての所伝は不明ですが、佐賀三代の宗一族のものだと考えられています。