『坂の上の雲』の時代~日露戦争と対馬要塞~
コースの概要
国境の島対馬は、現代に至るまで国防の最前線でもあり、特に明治期から第2次大戦期までは営々と要塞が築かれ、対馬自体が海上の大要塞とも称されました。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)で描かれた日露戦争・日本海海戦の時代を体験できるコースです。
コース説明(対馬とロシアの関係)
幕末の文久元年(1861年)、対馬の中央に広がる浅茅湾の芋崎を、ロシアの軍艦ポサドニック号が占拠するという事件が起きました。艦長ビリリョフは対馬藩の抗議を無視し、測量を行い、大船越瀬戸で番兵を射殺するといった暴挙にでました。
さらに、兵舎を建築するなど長期滞在の構えを見せたため、幕府は外国奉行・小栗忠順を派遣するも交渉は難航。占拠から半年後、イギリスの干渉もあり、ロシア軍艦は対馬から撤退しました。
時は帝国主義の時代。南下政策をとるロシアは、不凍港を求めて浅茅湾の占拠を目論み、一方のイギリスもまた、ロシアが撤退しなければ対馬を自ら占拠する計画だったといわれています。
その後もロシアは露骨な南下政策を続け、日清戦争後の三国干渉を経て、日本とロシアの戦争は避けられない状況となり、軍事上の要衝であった対馬は浅茅湾を中心に要塞化されていきました。
日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を一方的に撃破、日露戦争の勝利を決定的なものにします。対馬沖・日本海を主戦場としたこの海戦は、日本以外では一般的に「対馬海戦」(Battle of Tsushima)と呼ばれています。
所要時間
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
↓ 車で3分(徒歩10分)
半井桃水館
↓ 車で15分
上見坂公園(砲台跡)
↓ 車で20分
大船越
↓ 車で15分
万関橋
↓ 車で30分
観光情報館ふれあい処つしま(対馬観光物産協会)
※(一社)対馬観光物産協会は、長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま にあり、厳原港から車で3分、対馬空港からは車で20分です。
コース図
>>モデルコース・歴史観光 – (4) 「坂の上の雲」の時代~日露戦争と対馬要塞~ (グーグルマップ)
動画 姫神山砲台/豊砲台
※画像をクリックすると、姫神山砲台の映像(18:27~)、豊砲台の映像(17:05~)が流れます。
ルート紹介
(一社)対馬観光物産協会
観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
【所在地】 〒817-0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
【電話】 0920-52-1566
【アクセス】 厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分。
(1)半井桃水館(なからいとうすいかん)
半井桃水は明治期の新聞記者・小説家。対馬出身で、樋口一葉の師、思慕の対象として知られています。日露戦争時、従軍記者として戦地の情報を伝え、活躍しました。桃水の出身地である厳原町中村地区は現在も城下町の風情を残し、生家跡はコミュニティ施設「半井桃水館」となっています。
(2)上見坂公園(上見坂堡塁)
標高385mに位置する上見坂展望台からは、日本の代表的溺れ谷・浅茅湾が箱庭のように眼下に広がります。遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。
(3)大船越(松村安五郎と吉野数之助の碑)
文久元年(1861年)2月、ロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾に来航し、滞留すること半年。その間、家畜を略奪し、井戸を掘るなど長期滞在の構えを見せたため、幕府を巻き込んだ大騒動になりました。
最終的にはイギリスの力を借りてロシア艦の退去させたものの、大船越の瀬戸を強引に通過しようとしたロシア兵との争いにより、松村安五郎が銃撃され死亡、吉野数之助が捕虜になり、その恥辱に耐えかねて死亡するという事件が発生しました。2人はのちに戦没者として靖国神社に合祀され、大船越に碑が建立されました。
(4)万関橋
明治後期、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まり、日本海軍は水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるため、明治34年(1901年)、久須保水道(万関瀬戸)を開削しました。明治38年の日露戦争(日本海海戦)において、水雷艇隊が万関瀬戸を通って出撃して日本の勝利に貢献した、とされていましたが、実際には拡幅工事のため通行できず、南部を迂回して出撃したようです。
オプションルート 竹敷海軍要港部(美津島町竹敷)
(5)竹敷 ~海軍要港部跡~
1886年(明治19年)、浅茅湾南部の竹敷港に水雷施設部が設置され、海軍艦艇が出入りするようになりました。日清戦争後、基地としての重要性が高まり要港部に昇格。要港部は、横須賀・呉・下関・佐世保・竹敷の5箇所で、他の港を見ると、対馬がいかに重要視されていたかが分かります。現在は海上自衛隊対馬防備隊本部になっています。
>>海上自衛隊対馬防備隊本部(Googleマップ)
(6)深浦水雷艇隊基地跡
日清戦争において、海軍大尉・鈴木貫太郎(のちの海軍大将・侍従長・第2次大戦終戦時の総理大臣)は水雷艇長として竹敷から出撃、戦果をあげ、水雷艇の重要性を世界に認識させるきっかけになりました。
写真は、竹敷の深浦にある水雷艇隊の基地跡。「竹敷海軍要港部跡の石造施設群」は、(社)土木学会の「日本の近代土木遺産」でAランクに指定されています。
>>深浦水雷艇隊基地跡(Googleマップ)
オプションルート 重砲兵連隊・陸軍墓地ほか(美津島町鶏知)
(15)住吉神社の浮遊機雷
日露戦争後、海軍から戦勝記念に贈呈されたという鉄製の機雷。ロシア艦の侵入を防ぐため敷設されました。
>>住吉神社(美津島町鶏知)(Googleマップ)
(16)重砲兵連隊正門柱跡
赤レンガの柱だけが残り、現在は鶏知中学校の一部となっています。大西巨人の「神聖喜劇」はここを舞台にしています。
>>対馬市立鶏知中学校(Googleマップ)
オプションルート 対馬北東部(鰐浦~琴)
(7)茂木浜
明治38年(1905)、日本の興廃をかけた日本海海戦が対馬沖で繰り広げられました。上対馬町茂木浜には、アドミラル・ナヒモフ号の敗残兵が上陸し、手厚い看護を受けています。祖国を応援しつつも、哀れな敗残兵を助けたのは、島人の素朴な心性の発露だったのでしょうか。1980年にはナヒモフの大砲が海中より引き上げられ、記念碑とともに設置されています。
>>ロシア将兵上陸地(Googleマップ)
(8)殿崎 ~日本海海戦記念碑~
殿崎には、撃沈されたヴラジーミル・モノマフ号の水兵143名が上陸しています。農婦たちはこの敗残兵を水の湧き出す泉へ案内し、民家へ分宿させるなど手厚くもてなしました。石碑の題字「恩海義キョウ」(キョウは山+喬)は、連合艦隊司令官・東郷平八郎の揮毫。
>>日露友好の丘(Googleマップ)
(9)豊砲台 ~昭和の巨砲~
昭和4年起工、昭和9年に竣工した豊砲台は鉄筋コンクリート製。長さ18.5メートルの40センチ加農砲が2門装備され、爆撃に耐えられるようコンクリート壁の厚みは2メートル以上。名実ともに世界最大の巨砲でしたが、実戦では一度も砲弾を発射することはなく、昭和20年10月、米軍の爆破班により解体されました。
(10)海栗島(うにじま) ~現代の国防の最前線~
対馬北端の鰐浦沖の海栗島(うにじま)は、巨大なレーダーを備えた自衛隊の基地となっています。ヘリポートがあり、自衛隊員が常駐していますが、民間人は居住しておらず、北方を睨む国防の最前線となっています。一般人は立ち入ることができません。
※写真は韓国展望所から見た海栗島の様子。
>>海栗島(Googleマップ)
オプションルート ポサドニック号事件と芋崎
(11)芋崎
幕末、ロシア軍艦ポサドニック号が一時占拠した場所。ロシア兵が掘った井戸が今も残されており、「文久元年露寇之碑」の石碑が建てられています。芋崎は竹敷から北西に突き出した半島であり、浅茅湾のノド仏とも言われる軍事上の重要拠点のひとつでした。
※ 芋崎砲台の入り口(県道24号線の美津島町昼ヶ浦手前)から砲台までは片道約1.5km(徒歩約1時間ほど)の軽登山となります。露寇之碑まではさらに片道500m歩きます。
「ロシアの古井戸」です。井戸のほかに、宿舎・波止場などの跡があり、長期にわたって対馬を占拠しつづけるロシアの意図が見えます。
>>ロシアの古井戸・文久元年露寇之碑(Googleマップ)
(12)芋崎砲台
芋崎砲台は東京湾の次に整備が進められた対馬最初期の要塞で、保存状態はよいが道は悪路です。明治20年着工、21年竣工。
オプション 日露戦争に備えて築かれた砲台
(13)城山砲台跡
天智2年(663)日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、浅茅湾の南岸にそびえる城山に金田城を築き防衛の拠点としました。城山砲台は、城山を再度整備して造られた砲台で、明治33年着工、明治34年竣工。
(14)姫神山砲台跡
明治33(1900)年、モルタルと赤煉瓦をつかったイギリス風の要塞が姫神山に築造されました。うっそうとした樹木に覆われ、訪れる人も少ない状況でしたが、平成22年度に道路整備と周辺樹木の伐採を行いました。