姫神山砲台

明治時代~現代

2022/07/07

明治~現代のできごと

対馬の要塞化

(写真: 姫神山(ひめがみやま)砲台 対馬市美津島町緒方)

 幕末、ロシアは不凍港・浅茅湾領有を目指してポサドニック号事件(ロシア軍艦による対馬占領事件)を引き起こすなど、露骨な南下政策をとるようになります。明治政府は朝鮮半島の権益をめぐって清(中国)・ロシアと対立を深め、浅茅湾沿岸を中心とする対馬要塞の整備を命じ、やがて日清戦争・日露戦争が勃発します。
 日露戦争の最終局面である日本海海戦(Battle of Tsushima)では、日本帝国海軍とロシアバルチック艦隊が対馬沖で決戦の火蓋を切り、日本の一方的な勝利に終わりました。ロシアの被害は甚大で、対馬に流れ着いた敗残兵も多かったのですが、島民の手厚い看護により健康を回復し、やがて帰国しました。

 日露戦争の勝利はヨーロッパやアメリカに日本への警戒感を抱かせ、日本は国際的な孤立の道を歩くようになります。対馬の南北に海峡封鎖を目的とする巨大な砲塔砲台が移設され、太平洋戦争がはじまり、沖縄戦や原爆投下の果てに終戦を迎えます。
 戦時体制最後の総理大臣は、若き日に対馬の竹敷で水雷艇・駆逐艦を指揮して日清・日露戦争を戦った鈴木貫太郎でした。

珠丸(たままる)の悲劇

 第二次大戦が終結した1945年の10月14日、対馬海峡でひとつの悲劇が起きました。大戦中の銃爆撃や機雷の難を奇跡的に逃れ続けていた九州郵船の旅客船・珠丸(800トン。釜山~対馬~博多経路)が触雷・沈没し、多くの尊い人命が失われたのです。

 戦後はじめて連合軍から渡航を許された珠丸には、朝鮮半島・大陸からの引揚者・復員軍人等がひしめいていました。名簿には730名の乗船者が記録されていましたが、公式な生存者は185名。帰国を急ぐあまり切符を持たない割り込み乗船者も多く、実際の乗船者は1000人以上とされ、実に800名以上が犠牲になったといわれています。
 当時の対馬海峡には、旧日本軍によるとされる6000個もの機雷が敷設されており、船室内にいた女性や子どもの多くが犠牲となりました。

 平成3年、航海の安全と恒久平和への祈りを込め、対馬歴史民俗資料館横に珠丸犠牲者の慰霊塔が建立されましたが、その後、博物館建設工事に伴い、厳原港に移設されました。


 ※機雷に関しては、九州郵船の航海日誌により日本軍のものとされていますが、米軍のB29が空中散布したものという説もあります。
 

宮本常一 ~忘れられた日本人~

 終戦まで長年にわたり要塞化され、開発が抑制されていた対馬は、古い民俗や文化の宝庫でした。

 朝鮮戦争が始まった1950年、民俗学者・宮本常一らの八学会連合(翌年から九学会連合)による対馬総合調査が行われ、宮本は対馬全島を歩き、古老の話を聞き、古文書を書き写し、写真を撮影しました。

 代表作「失われた日本人」に収録されている「梶田富五郎翁」の舞台である厳原町・浅藻(あざも)は、明治初年までほとんど人の住まない土地(天童法師信仰の聖地・八丁郭がある)でしたが、明治10年ごろに大島郡久賀浦(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着き、続いて沖家室島(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着きます。

 久賀の漁民達は、干潮時に海に潜って海底の岩に縄を結びつけ、満潮時に船の浮力を利用して岩を海底から持ち上げて沖に捨てるという方法で港を整備していきます。

 1回の干潮・満潮で1つの石を運ぶことしかできず、大波によって捨てた岩が岸に押し寄せたこともあり、それは気の遠くなるような作業でした。その後、浅藻は鯛や鰤の漁港として大きな賑わいを見せることになります。

 それから約100年。
 現在の浅藻は過疎が進み、小学校も廃校となり、静かな漁村に姿を変えています。

昭和20・30年代 ~イカ・サバ漁、パルプ景気~

(写真: 厳原港)

 昭和20年~30年代は、戦後の対馬がもっとも賑わった時代でもありました。対馬近海は西日本屈指の漁場であり、瀬戸内海などからも大量の漁船がやってきました。厳原には銭湯がいくつも営業し、飲み屋が軒を連ね、博多税関が持て余していた高価な舶来タバコが数時間で売り切れたといいます。

 また、対馬の山に手付かずで残されていた木材も大きな富を生みました。大手の製紙会社が対馬の木材をパルプ用に買い上げ、その利益はサバ漁の利益を凌ぐほどでした。
 本土と離島の格差に胸を痛めた宮本常一の奔走によって離島振興法が策定され、対馬島内の港湾・道路などのハード整備も進み、島民の生活をさせてきました。しかし、開発によって失われた自然環境や歴史的風景も多く、日本の順調な経済に支えられた資源頼みの産業はやがて限界を迎えることになります。

そして現代

 基幹産業である漁業の不振と公共事業の削減、過疎・高齢化の進行という厳しい情勢のなか、交流人口拡大の切り札として観光業が注目されるようになりました。

 2000年には韓国との航路が定期化され、2018年の韓国人観光客数は年間41万人に達しましたが、オーバーツーリズムの問題が発生し、翌年には日韓関係の悪化により観光客数は激減。国際関係の影響を受けやすいインバウンド観光の弱さを露呈することになりました。

 全島が限界集落化していくなか、対馬独自の自然・歴史・伝統などを活かした観光・地域振興、持続可能な地域社会の構築が急務になっています。