対馬古写真図鑑(写真 No.50~99)

2024/06/22

【目次】

写真 No.050 「十王小路・商店」

写真 No.050「十王小路・商店」 ■ 思い出しました。〇〇惣菜店の名前は確か古川惣菜店だったと思います。そして尾形商店の隣は黒岩商店の跡に原田鮮魚店がありました。(MO) ■ 懐かしいですね。松井洋品店側、奥に向かって杉原豆腐、山本鮮魚、井上電器、黒岩商店?、尾形商店、吉田商店、梅野商店、宮本精肉店、〇〇惣菜店、篠塚商店、吉住果物店だったと思います。反対側は武田商店、中島精肉店、吉田商店、和菓子潮の瀬、高田てんぷら店、浜田鮮魚、つかさや、山中旅館、清水クリーニング、島田鮮魚、昭和館、村瀬床屋。(MO) ■ 「じょうしょうじ」は1955年ごろにいち早く舗装されました。南側が武田商店、食料品と履物。北側が「マツイ」で洋品店で、化粧品もあったように覚えています。マツイの奥に杉原豆腐店が写っています(三浦 轍司) ■ 白髪の坊主頭のおじいちゃんが一人でされてました。理髪店組合に入ってないとかで、月曜日も開いてたし、よそよりも数100円安かった。ボウズの時は、固形の洗濯せっけんでゴリゴリ洗ってくれる事で、有名でした。シャンプーがない時代じゃなかったんですがね~。(笑)だから安かったのかも?(JAN) ■ この頃、中島精肉店は、武田商店横だったのです。(山) ■ 左に中島精肉店が写っているので反対側と思われます。(h) ■ 十王小路の大町側の入口で右は武田商店、左はマツイ洋品店です。(山) ■ 左には床屋がありました。しかも切った量で金額が決まるとか決まらないとか。(h) ■ hさんへ,本当ですね。私は国道側と思いましたが,よく見ると右側は八百屋さんみたいですし,左には服が掛かっていますね。ここは床屋さんかクリーニング屋さんが会ったと思います。やっぱり,川側の入り口のようですね。(杉) ■ 逆の方では?(h) ■ ここは,厳原の「十王小路」(私は「じょうしょうじ」といっていましたが・・・)の入り口と思います。自転車の停まっているところが,現在の「滝川薬局」ではなかったかな?(杉)

写真 No.051 「豆酘漁港・漁船」

写真 No.051「豆酘漁港・漁船」 ■ 白い建物は豆酘漁協です。(豆酘の漁師)

写真 No.052 「立亀岩から厳原港・久田道」

写真 No.052「立亀岩から厳原港・久田道」 ■ 左手の大きな屋根は「光清寺」ですね(たろ) ■ 西の浜の埋め立てが始まる前ですね。昭和30年ごろはまだ埋め立てが始まっていませんでした。(三浦 轍司) ■ 今は久田と厳原港を結ぶ橋ができてますが、この石垣は手前にもあり、石垣を囲んで港がありますよね。この石垣をそれぞれ『外矢来(そとやらい)』『内矢来(うちやらい)』と呼んでいたそうです。防波堤のようなものでしょうか。それから、『内矢来』のそばに『漂民屋』という韓国人漂流民を介抱・宿泊させ、本国へ送還させるための施設があったようです。「国交が断絶した時代も変わることなく継続されていた」と立て看板に書いてありました。最近教えていただきました。(サミ)

写真 No.053 「厳原本川と柳」

写真 No.053「厳原本川と柳」 ■ 昔のことです、この川沿いに、たぁ坊、しょう坊、まぁ坊、ひろ坊、ゆう坊、けん坊、たか坊、やす坊、・・・。えっちゃん、じゅんちゃん、ひろみちゃん、のりちゃん、ひろちゃん、ふみちゃん、・・・。らの、明るい笑い声が満ちあふれていた時代が有りました。(フォルツァ) ■ かすかに記憶が有ります。細いので、恐くて渡れなかった記憶が。右手側に、ひろみ食堂、飛田理髪店などが有った(後に電々公社が建てられた)頃?(フォルツァ) ■ 左手(西側)のコンクリートの壁は電電公社。南側は理髪店、食堂、小山舜輔先生の対馬病院の裏口、伊藤燃料店、昭和橋です。東側は与良郷宿と呼んでいました。(三浦 轍司) ■ 遊月橋から観る川端どおり。子どものころよく遊んだ場所です。一番手前の橋は板でできた橋で,渡るときぶわんぶわん揺れていたのを思い出します。現在はありません。向こうに見える橋は,丸栄スーパーの所の橋です。(HK)

写真 No.054 「厳原八幡宮前・大鳥居」

写真 No.054「厳原八幡宮前・大鳥居」  

写真 No.055 「電報電話局・電電公社」

写真 No.055「電報電話局・電電公社」 ■ この電報電話局が出来たのが昭和31年ごろでした。アイアンスチールのサッシュが濃紺に塗られていました。板に書いたおまわりさんは同じ頃に小学校の西校舎の前にも登場しました。道路の舗装工事がお宮の前にかかったのは昭和33~4年頃だったように覚えています。(三浦 轍司) ■ 今もある建物ですが、道路拡張で2Mほど削られるそうです。旧電電公社。現在のドコモや弁護士会が入ってる部分は新館で、屋上に巨大なアンテナが立っています。それができる前で、道路が未舗装の写真ですので年代特定は容易かも?ちなみに昭和45年にはすでにありました。エレベーターや4階建てのビルが珍しくてよく遊んでました。(JAN)

写真 No.056 「対馬警備隊歩兵大隊の全景・大正8年」

写真 No.056「対馬警備隊歩兵大隊の全景・大正8年」 ■ 遠くに見える山は形状からして、曲の突端部にある「にぎり飯海岸」の山そのものですね。今の自衛隊の場所は大正時代から全く変わらないんですね。(スペインの蠅)

写真 No.057 「高麗門」

写真 No.057「高麗門」 ■ 高麗門を進駐軍の中から撮ったものですね。(三浦 轍司)

写真 No.058 「移築された黒門?」

写真 No.058「移築された黒門?」 ■ 女学校を下りてきてすぐに右に曲がると大山さんというお宅がありました。その家の門で、阿須の一本杉の先のほうに在った黒門を移築したものと、聞いていました。(三浦 轍司)

写真 No.059 「厳原中学校・旧竹敷海軍兵舎」

写真 No.059「厳原中学校・旧竹敷海軍兵舎」 ■ 写真右の方から説明します。半分切れてるからわかりづらいけど、 右端のT字型の建物、新校舎。主に三年教室。右端と一番奥から出入りできた。(三年専用、一・二年は正面玄関のみ) その左が旧校舎。戦時中、美津島の海軍か陸軍の兵舎として使っていたものを解体移転したものらしく、全て木造。木枠のガラス窓。かなりガタがきてて、隙間も多く傾いてたから、昭和51年夏休みに外壁につっかい棒をして補強された。その時は新校舎と旧校舎間は1・2階とも行き来できる渡り廊下ができてた。(どちらもこの写真には写っていない) 中央に廊下があり、両側に教室が並んでいた。建物二階左側が一年、右側が二年教室で階段は2ヶ所。一階は職員室や実習室。 その左、ちょっと引っ込んだ建物は実習棟。1階が技術室、2階が音楽室。その左が講堂。式典用。部活で剣道部、卓球部、体操部(52年に休部)狭かったがバスケット、バレーもできた。その前にあるのが心字池(旧藩主邸の鎌倉様式の庭園らしい)その裏に見えるのが万松院墓地(下から階段を登ったあたり。逃走防止か?有刺鉄線が張ってあったが、よく昼休みに抜け出してた) その左が柔道場。手前、池の左にみえる細長い屋根は自転車置き場。そこからのびる道は「根性道路」と呼ばれ桜並木の下を運動部が走ってた。グラウンド内を走る内周、その外側(校舎前、根性道路)を回る外周、外に出て幼稚園の方からビジターセンターの向こう側の坂を登ってプチ峠を回ってくる外外周の三種のランニングコースがあった。 根性道路ワキの建物は体育倉庫、その手前に砂場と鉄棒。その手前にバスケットコートが縦に三面あった。一面二面の間のリングは両面ポスト(リングの後ろ側にもリングがある二面ブッダみたいなやつ。)で、影が写ってる。これが立ったのが昭和46・7年頃。 写真にもあとが残ってるが、雨が降るたびに川ができるグラウンドで、雨上がりはいつも石拾いだった。(JAN) ■ 清水が丘にあった時の厳原中学校じゃないですかね。(h)

写真 No.060 「裁判所周辺?」

写真 No.060「裁判所周辺?」 ■ 裁判所の式台辺りから門の南側を見たもの。(三浦 轍司)

写真 No.061 「厳原測候所・鐘楼」

写真 No.061「厳原測候所・鐘楼」 ■これは、田淵だったか天道茂だったか、・・・今はなき厳原測候所に上っていく途中の鐘楼だと思います。今の、宝泉寺正門から左手に上っていく道の途中でしょう。写真のずっと奥、左手に写っている鉄筋の建物は今の対馬支庁です。屋上の鉄骨の塔が、まだ見えています。(今は塔は取り壊されて基部しかありませんが・・・)(杉 憲)

写真 No.062 「旧厳原町郷土館」

写真 No.062「旧厳原町郷土館」 ■ この建物は厳原町の「郷土館」と思います。現在の厳原幼稚園からビジターセンターの方へ上っていく道が昔あって、その途中に建っていました。ビジターセンターの所は、昔、厳原町役場でした。この鉄格子のついた扉を入ると、正面に、朝鮮から流れ着いたといわれる奇妙で大きな仏像が立っていて、子供心に、怖かったのを覚えています。(杉 憲)

写真 No.063 「正装した女性たち」

写真 No.063「正装した女性たち」  

写真 No.064 「まるはち食堂・旧古川家長屋門」

写真 No.064「まるはち食堂・旧古川家長屋門」 ■ 間違えました。現郵便局前くらいからのショットですね。(hatiyyu) ■ 厳原大町通り。対馬交通本社入口横の食堂では?バス待ち時間でうどんを食べたのを覚えています。のちに対馬交通の直販所になったと記憶してます。電柱のところにも食堂がありました。暗いところはやまや旅館の入口ですかね。(hatiyyu) ■ 覚えがあります。左はしに見える今風の建物は以前のおおたギフトさんですよね。郵便局側から写したものじゃないですかね(川)

写真 No.065 「お天道様祭り・樫根」

写真 No.065「お天道様祭り・樫根」 ■ 厳原町樫根の上流側の写真で、「お天道様」という行事のスナップだそうです。(スペインの蠅) ■ 佐須地区の樫根じゃないかな?(FAN)

写真 No.066 「旧厳原中学校体育館・現清水ヶ丘」

写真 No.066「旧厳原中学校体育館・現清水ヶ丘」 ■ なんと、私の同級生達が・・。名前を出して良いかな・・・。良く見ると稲富という技術家庭科の先生も。(三浦 轍司) ■ 旧厳中の心字池です。後ろは、体育館(講堂)です。(山)

写真 No.067 「厳原港・立亀岩付近」

写真 No.067「厳原港・立亀岩付近」 ■ 左に行けば桟橋です。立亀の下を北側に戻った辺りが撮影場所ですね。(三浦 轍司)

写真 No.068 「漁網の手入れ」

写真 No.068「漁網の手入れ」  

写真 No.069 「大町通り・江尻橋・長屋門」

写真 No.069「大町通り・江尻橋・長屋門」 ■ 左奥が旧やまや旅館の長屋門でほか弁の横から見ている写真です。橋の欄干は、江尻橋のものです。(山)

写真 No.070 「旧県立対馬高等学校・現厳原中学校」

写真 No.070「旧県立対馬高等学校・現厳原中学校」 ■ 小浦に住んでいたので、小学校のかえりに通りました。今は高校でないんですね。手前の右側に自衛隊の官舎その向かいにバス停があって、雑貨屋があり買い食いしたことをおもいだしました。(kozima) ■ 今の厳原中学校ですね(^^)(h)

写真 No.071 「白水醤油屋付近・イカさばき」

写真 No.071「白水醤油屋付近・イカさばき」 ■ 白水醤油屋の西側ですね。白水醤油屋は1958年ごろまで製造していました。(三浦 轍司)

写真 No.072 「白水醤油屋付近・イカさばき」

写真 No.072「白水醤油屋付近・イカさばき」 ■ 鈴木宅の屋根と、左隅に、税関の松が見えます。(三浦 轍司)

写真 No.073 「大町通り・厳原本川・夜景」

写真 No.073「大町通り・厳原本川・夜景」 ■ 左端が江崎泰平堂ですね。(三浦 轍司)

写真 No.074 「イカのカーテン」

写真 No.074「イカのカーテン」  

写真 No.075 「大衆丸・お見送り」

写真 No.075「大衆丸・お見送り」 ■ 対州丸の写真手元にありますので限定いたしました。電気もなかった対馬を思い出します(冨谷 篤) ■ ひらやま様こんにちは。私は厳原の国分で生まれ、高校を卒業する頃は天道茂でした。 鶏知に初めて行ったのは中学生のときです。尾浦から鶏知が行動範囲だったです。對州丸ではなくて大衆丸ですね。 船の総トン数は測定方法が2種類ある、ということを、子供のころ聞いたことがありますが、大衆丸は1000トンを少し切れるくらいだったように記憶しています。 あの船底の三等船室、二等船室、ソファがあって真っ白なカヴァーがかけてあった船室は一等船室だったのでしょうか。時々思い出して、船酔いしそうになります。(三浦 轍司) ■ こんにちは対馬を離れて永いですが懐かしいです。三浦様は厳原の方ですか?私は中学まで鶏知にいました。 三浦様の別のコメントにあるようにこちらが 600tくらいの新しい対州丸ではないでしょうか? >> 写真 No.190「対州丸・お見送り・昭和40年」 こっちが1000tくらいの古い船ですね。對州丸か 大衆丸だったのか記憶が定かでありません。 >> 写真 No.107「松と船」 (ひらやま) ■ 三浦様 平山様 こんにちは 島を離れてながいですが懐かしくおもっております。私は中学まで鶏知におりました。こっちの掲示板に気がつかずアルバムの方から同じ内容を二重に投稿していましました。ごめんなさい。旧「たいしゅうまる」は小さいながらもフォワードサロンがあり大変眺めがよかったです。船名はどっちでしょうか? 本船は対馬航路を引退した後、下関<>釜山航路に移ったようです。 現在は東京在住で離島航路が懐かしく伊豆諸島航路に乗船することがあります。フェリー化をかたくなに拒み まだ貨客船のままですが、「さるびあ丸」は5000t近ありレストランまである快適な船です。対馬との違いに悔しく思っております。(ひらやま) ■ 当時の時刻表をお持ちですか。それはすごいですね。 壱岐での停泊が郷ノ浦、勝本、芦辺のいずれかでしたね。芦辺では沖に停泊して艀がやって来ていました。 この、船の名前の件、私も気がかりで、7月に厳原で、当時、九郵に勤務されていた方にお伺いしたのですが「うーん、辞めて30年にもなると、咄嗟に聞かれても、何が何だか・・」と言う返事しかいただけなかったのです。 やはり「大衆丸」だったのですね。写真の#75、#103、#107については、私のミスで、削除なり名称の入れ替えなりを管理人さんにお願いします。 ついでに#104,父上が壱州丸の船長さんだった「F君」は「k君」の間違いです。管理人さん、お手数ですが訂正をお願いします。 平山様、ご指摘ありがとうございました。(三浦 轍司) ■ 何回も乗ったけど、残念ながら小学生までだったから証拠写真はないなあ。間接的な証拠なら、壱岐対馬航路の時刻と就航船「大衆丸、壱州丸」と書いた交通公社発行の古い時刻表なら持っています。(平山) ■ 私も大衆丸と船尾に書かれていた記憶があるのですが、母は「私の友人の亭主がこの船のボーイさんで、友人と船に遊びに行ったけれど、對州丸のはずだ」と言い張るのです(長生きが迷惑な例ですね)。 でも、どう考えても、大衆食堂の、「大衆」だったと思っています。船のお尻の写真の出現を待っています。(三浦 轍司) ■ 初めまして。偶然ですが同じ名前ですね。母が対馬出身なので幼少の頃(私は団塊世代です)よく乗りました。懐かしいな。名前は「大衆丸」です。他に男島丸(前の投稿にありましたね)も博多-厳原間を運航していましたよ。大衆丸は昭和38年頃までだったと思います。その後が対州丸、続いてあそう丸ですかね。(平山) ■ 対州丸の前の船 こちらが大衆丸ですね。私も對州丸と思っていましたが文献などで大衆丸と書いてある例がおおいですね。本当はどっちでしょう? 九州郵船では「浅生湾」が一番好きですがすぐにフェリーにかわってしまいました。写真はありませんか? >> 写真 No.107「松と船」(ひらやま) ■ 煙突が2本ということで大衆丸だとおもいます。対州丸ができる前の割と大きな船です。800t 対州丸は後部に煙突が一本だったとおもいます。(ひらやま) ■ 対州丸の出航風景。デッキが二段。救命ボートが両サイドに二艘、煙突も2本だったと思います。 この船で運ばれる途中で亡くなられた友人の父上、他にもこの船で急死された友人の父上のことを思い出して、乗船はちょっと苦手でした。(三浦 轍司) ■ 船腹の「T257」から判断して、1947年就航の「大衆丸」と思われます。下記ブログの大衆丸の船腹にT257が見えます。 https://blog.goo.ne.jp/mc53000/e/9549c3f973f495a118c4adf8ad475488(上野俊一) ■ 私は昭和30年生まれです、私の記憶にあるのは對洲丸でした、小学校に上がってから祖母と博多に行くのによく乗っていました、壱岐に着く前にボーイさんがお昼ご飯の注文を取りに回ってたような記憶があります、壱岐に着くとたのんだ丼物など船の中で食べてたような記憶もあります、私はさすがに船酔いの為食べられませんでしたけど、今になると懐かしい思い出です(小田)

写真 No.076 「お天道様祭り・樫根」

写真 No.076「お天道様祭り・樫根」 ■ 佐須の下原・樫根地区の「お天道様祭り」(走り走り祭り)、2年に一度行われます。区長・神社総代の顔ぶれからみて、昭和62年12月の写真です。写真番号〔65〕はこの後方の行列の写真になります。(ラッキーパパ)

写真 No.077 「てぼ(背負いかご)と女性」

写真 No.077「てぼ(背負いかご)と女性」  

写真 No.078 「巾着網船団と厳原港」

写真 No.078「巾着網船団と厳原港」 ■ 母の話では、この写真が昭和28年頃のものであれば、この頃、入港する巾着船は、生月島から、鯖漁に来ていた人たちの船です。こういう日が続いて、裏町の飲み屋さんや、旅館が潤ったという事です。(三浦 轍司) ■ イワシ漁の出漁準備をととのえる巾着網船団(厳原港)とあります。本では天地を十分の一程度カットされて、立亀の岩肌や志賀の鼻はありません。(三浦 轍司) ■ 立亀岩から下を見たもので新出光、住田商店前です。左奥は、旧船着場です。(山)

写真 No.079 「木材の切り出し」

写真 No.079「木材の切り出し」  

写真 No.080 「巻きドウ・豆酘」

写真 No.080「巻きドウ・豆酘」 ■ 豆酘の『巻きドウ』。豆酘ですね。漁師さんからよく、手伝わされました。巻きドウで船を丘に上げてました。他の地区ではあまり見ないと思います。現在は数も少なく鉄製もあり、淋しいばかりです。(キタタキ) ■ 豆酘の『巻きドウ』。懐かしい!うちのじいちゃんの手伝いによく行きました。豆酘弁では「まくどう」って言ってたような。(山猫タイヤ)

写真 No.081 「イカさばき・厳原港矢来内側」

写真 No.081「イカさばき・厳原港矢来内側」 ■ 矢来の内側です。(三浦 轍司)

写真 No.082 「イカさばき・厳原港矢来内側」

写真 No.082「イカさばき・厳原港矢来内側」 ■ 大町通りからまっすぐ下がるとこのように階段になっていて矢来の内側の海面でした。(三浦 轍司)

写真 No.083 「万関橋」

写真 No.083「万関橋」 ■ これは初代です、2代目がアーチ橋(西海橋タイプ)で現在は3代目です。(フォルツァ) ■ これが2代目かな?1代目は吊り橋だったと聞いていますが吊り橋を見たいものです どなたか写真をお持ちで無いでしょうかネ(pegasus) ■ 船名 功丸。クレーンの起重機に屋根がかかっているのが特徴です。(kurage)

写真 No.084 「本石製材所・旧豆酘中」

写真 No.084「本石製材所・旧豆酘中」 ■ 豆酘の神田神社前の道路(現在神社はない)。東神田627、高御魂神社。木がこんもりとしている向こう側に本石製材所があったので、その製材用の木材が置いてあるのではないか。(桟原 久之助) ■ 豆酘の中学校前です。(現在小学校)松の木の所が正門付近です。左、手前電柱の所が現在の天本石油店です。中央、奥に電柱と重なる木は、写真番号133の松の木です。(年代45年前かも 50年前かも)(豆酘の漁師) 【訂正】松ノ木の所は、中学校の時の正門付近で、現在は、松ノ木より写真奥30メートル付近です。(Y.S)

写真 No.085 「巻きドウ・豆酘」

写真 No.085「巻きドウ・豆酘」  

写真 No.086 「イカさばき」

写真 No.086「イカさばき」  

写真 No.087 「はぎとうじん・豆酘の女性」

写真 No.087「はぎとうじん・豆酘の女性」 ■17歳だったそうです。(桐○○子さん写真左の人の話)。桐○○子さんは、豆酘にすんでおられます。72歳だそうです。右の人は、赤○○子さんで、福岡に住んで、おられるそうです。(丸顔の人、この人も72歳だそうです)このころは、普通に着物を着ていたそうです。(着物の名前 ハギトージン、または、トージン着物と、いっていた用です。年代は、みた人で計算してください。(豆酘の漁師)

写真 No.088 「不明」

写真 No.088「不明」  

写真 No.089 「川端通り・権現山・立亀岩から」

写真 No.089「川端通り・権現山・立亀岩から」 ■ 1962年ごろには権現山に塔が立っていて、有明の頂上から尾根伝いに歩きました。この写真は電電公社の2階建てビルが出来てから、権現山に塔が立つ前の間に撮られたということですね。(三浦 轍司) ■ 立亀岩から観た厳原。向こうに見える2つの黒っぽい大きな2階建ての建物が,その当時の厳原小学校です。右側を東校舎,左側を西校舎と言っていました。そして,東校舎の手前に見える白っぽい2階建ての建物が,その当時の厳原警察署です。(HK)

写真 No.090 「嗚呼難儀坂(あなぎざか)・久田」

写真 No.090「嗚呼難儀坂(あなぎざか)・久田」 ■ 昭和38年の春に高校の同級生達と尾浦に行き、帰りを歩きましたが丁度このあたりは拡幅工事をやっていました。写真右の赤茶色の岩肌、松の木、厳原港の景色はこのままでした。3年前に帰島して、この撮影場所を探したのですが陸運の前に立ち、ここではないだろうか、と判定に迷うほど周囲が変わってしまっていました。下(しも)のほうの人が、厳原に出てきて、久田で米を馬に積んで帰る光景。昭和35年に馬に乗って往来する事が禁止されたと聞いています。(三浦 轍司) ■ 久田から豆酘方面に向かう久田地区の坂ですね。遠くに厳原港のシンボルである立亀岩が見えます。この坂は嗚呼難儀坂(あなぎざか)というはずです。(スペインの蠅)<

写真 No.091 「旧厳原中学校・元竹敷海軍兵舎・清水ヶ丘」

写真 No.091「旧厳原中学校・元竹敷海軍兵舎・清水ヶ丘」 ■ この建物は大戦当時竹敷にあった海軍兵舎を移築して厳原町立中学校に利用。(移築工事を阿須の幾度富雄さんがされたと思う)(桟原 久之助) ■ 清水ケ丘の旧厳中校舎です。(山)

写真 No.092 「お宮参り・厳原八幡宮」

写真 No.092「お宮参り・厳原八幡宮」 ■ 八幡様の階段手前の鳥居でしょう(山)

写真 No.093 「久田側から厳原港」

写真 No.093「久田側から厳原港」  

写真 No.094 「イカのカーテン」

写真 No.094「イカのカーテン」 ■ 昭和40年ごろいっぱい一円で烏賊の皮を剥くアルバイトをしていました。多い人で200円、子どもだった自分は50円くらいもらいました。悲しい思い出です。(kozima)

写真 No.095 「巾着網船団・厳原港」

写真 No.095「巾着網船団・厳原港」 ■ 厳原の港がこんなに漁船であふれていて、当時の厳原の町の活況が目に浮かびます。大町通り、横町通り、西・東川端通りの商店街の賑わい。大手橋の歓楽街の賑わい。なつかしい思い出がいっぱいです。(フォルツァ) ■ 新出光、住田商店前です。奥は、中ヤライで現在は、埋め立てられています。(山)

写真 No.096 「絵葉書・厳原八幡宮」

写真 No.096「絵葉書・厳原八幡宮」  

写真 No.097 「佐伯旅館・双葉・佐野屋橋」

写真 No.097「佐伯旅館・双葉・佐野屋橋」 ■ 滅多に生の音楽を聴けなかった頃で、年に一度あるかないかの自衛隊の吹奏楽の訪問も楽しみでした。奥に佐伯旅館の建物。(三浦 轍司) ■ 橋の親柱に佐野屋橋と見えます。今の釜山亭前あたりじゃないかな。(山)

写真 No.098 「不明」

写真 No.098「不明」  

写真 No.099 「野間理髪店・長屋門・大雨」

写真 No.099「野間理髪店・長屋門・大雨」 ■旧やまや旅館の玄関前の長屋門の一角です。長屋門に向かって左から江崎御茶屋・パ-マ屋・写真の野間散髪屋・江副食堂・やまや玄関・まるはち食堂・散髪屋となってました。(山)