対馬古写真図鑑(写真 No.100~149)

2024/06/22

【目次】

写真 No.100 「川端通り・厳原本川・祇園前」

写真 No.100「川端通り・厳原本川・祇園前」 ■ この橋を渡って東側がを北に、中村そば屋、アイスキャンデーの富士、土蔵は片山靴店が見えます。(三浦 轍司) ■ 祇園前の橋と思います。右に八千代旅館が写っているので・・・今の大将軍じないかな。(山) ■ 写っている手前の橋は、祇園前じゃないかな。右に八千代旅館が見えるの・・・(山)

写真 No.101 「旧九州郵船船着場」

写真 No.101「旧九州郵船船着場」 ■ 祖父と祖母が火事のとき海陸に勤めていました。火事のとき警察に泊められていた祖父に毎日会いに行きました。当時私は4歳か5歳でした。(堀川) ■ 左端の建物はお土産屋さんで、この岩を削った時に立ち退きました。その向うは火事で焼ける前の九州郵船ですね。(三浦 轍司) ■ 旧九州郵船船着場。(山)

写真 No.102 「立亀岩・厳原港・久田道」

写真 No.102「立亀岩・厳原港・久田道」 ■ 立亀の向うの海中に右から堤防のようなものが見えますが、いずれここまで、埋め立てられました。右から見て、人家が途切れたところが夷神社。途切れる端の家が吉田商店。埋め立ての最中、昭和34年ごろ台風が来て、この堤防がぐちゃぐちゃに壊れたのを覚えています。(三浦 轍司)

写真 No.103 「大衆丸・お見送り」

写真 No.103「大衆丸・お見送り」 ■ 大衆丸ですね。特徴 上部甲板の救命ボート、ブリッジ前のデーリッククレーン。(kurage)

写真 No.104 「壱州丸」

写真 No.104「壱州丸」 ■K君のお父さんが船長らしい、と同級生の間で話していました。対州丸と毎日交互に桟橋に入って来ました。到着予定時刻が15時20分。実際そんな日もありました。壱州丸が新造されるまでは男島丸だったそうで、東沿岸線に乗って佐須奈に帰る友人を見送りに行った時に男島丸を久々に見ました。(三浦 轍司)

写真 No.105 「素潜り漁・海女さん」

写真 No.105「素潜り漁・海女さん」  

写真 No.106 「宗助国公」

写真 No.106「宗助国公」  

写真 No.107 「松と船」

写真 No.107「松と船」  

写真 No.108 「佐須道・床屋~小茂田」

写真 No.108「佐須道・床屋~小茂田」 ■ 懐かしいです。この道は 昔 床屋に住んでいて小茂田浜へ遊びに行くのに良く通った道です。途中に郵便局がありました。(河上 博美) ■ 小茂田の大正橋から現農協を真ん中に見た風景ですね。(hatiyyu) ■ 小茂田浜を望んだ写真だそうで 左側の大きめの建物は、映画館(S42頃閉館?)だったそうです。(スペインの蠅) ■ 小茂田浜の方向では!? 道路の曲がり具合,向こうに見える様子から,小茂田に間違いないと思っているのですが・・・。(HK)

写真 No.109 「応援合戦」

写真 No.109「応援合戦」 ■1班から4班に、確か住んでる地域別に分かれていました。座っている桟敷は山から切ってきた竹と縄で生徒自らが組み上げます。よく崩れました。右手へ3.2.1班となるはずです。その右を登っていくと上見坂になると思いますが。(阿比留1000St)

写真 No.110 「西鉄ライオンズ選手・厳原中学校」

写真 No.110「西鉄ライオンズ選手・厳原中学校」 ■ 背後の学生のユニフォームを見ると、厳原中学校(げんちゅう=GENTYU)のようですね。中央左が稲尾投手でしょうか?右の黒皮ジャンの人は?(エヌ@管理人)

写真 No.111 「西鉄ライオンズ選手」

写真 No.111「西鉄ライオンズ選手」 ■ 中央は、西鉄ライオンズのピッチャーで、稲尾さんの先輩になる河村英文さんでしょう。(旅行者)

写真 No.112 「兵営内空き地への植梅」

写真 No.112「兵営内空き地への植梅」  

写真 No.113 「衛戌病院・熊本鎮台付属対馬警備隊司令部」

写真 No.113「衛戌病院・熊本鎮台付属対馬警備隊司令部」 ■ 対馬の写真百年史に同じ写真があるが、熊本鎮台付属対馬警備隊司令部で左門柱に衛戌病院とある。(森 正孝) ■ 現陸上自衛隊(山)

写真 No.114 「綱引き・写真131の一部」

写真 No.114「綱引き・写真131の一部」 ■ 現陸上自衛隊(山)

写真 No.115 「古墳」

写真 No.115「古墳」  

写真 No.116 「対馬交通バス・運転手・バスガイド」

写真 No.116「対馬交通バス・運転手・バスガイド」 ■ 上見坂ですね。左端のガイドさんは、鶏知の鶴の山の、鶴さんの屋敷を鶏知側に下りたところに住んでおられた阿比留美和子さんではないでしょうか。だとすれば65歳ぐらいになられたかなあ。(三浦 轍司) ■ バスの運転手さんは牧本さん(同級生のお父さん)です。昔の中学校の近くに住んでいられました。(糸瀬 敬一) ■ 右側の男性は、対馬交通のバスの運転手の「マキモト」さんでは?という情報をいただきました。(エヌ@管理人)

写真 No.117 「お船江」

写真 No.117「お船江」 ■ なんかおさまりの悪い、不安定な写真だなと思ってましたが、この写真は上下逆ですよね。(貞光) ■ お船江(山)

写真 No.118 「お船江」

写真 No.118「お船江」 ■ お船江(山)

写真 No.119 「お船江」

写真 No.119「お船江」  

写真 No.120 「お船江」

写真 No.120「お船江」 ■ 久田のお船江の入り口。左手奥に、このお船江をお世話するための住宅が4棟あり、一部が写っています。1980年ごろまで残っていたのですが、今はありません。(三浦 轍司)

写真 No.121 「お船江」

写真 No.121「お船江」  

写真 No.122 「石屋根」

写真 No.122「石屋根」  

写真 No.123 「金石城石垣・旧厳原中学校の門」

写真 No.123「金石城石垣・旧厳原中学校の門」 ■ 厳原中学校と書かれた門が出来たのが1963年ごろでした。これは、それ以前ということになります。左側の幼稚園の桜組の教室の屋根、中央奥には拘置所の塀と建物の屋根。屋根が少し高くなっている建物は、拘置所の中のホールで、歌手や漫才の慰問が行われていて、小学生の頃、友人のお父さんが、「入ってみていかんね~」と誘ってくれたものです。(三浦 轍司) ■ 私もこの鐘楼跡にはよく登って遊びました。ふつうの桜の木になる黒くて酸っぱいサクランボをたべて,口の中真っ黒にしていました。手前の空き地は,厳中のバレーコートがありましたよね。友達が9人制バレーを頑張ってました。(杉 憲) ■これは、清水が丘のプールのとこですね。小さい頃上に登ってあそんでました。(h)

写真 No.124 「暢孫(ながつぐ)屋敷長屋門」

写真 No.124「暢孫(ながつぐ)屋敷長屋門」 ■ じいちゃんの家? 私の母方の実家だと思います。昔、郵便局の前は元々森の家が建っていたと言っているのですが、ココがそうなのかなぁ。(森の子孫) ■ ながつぐは暢孫とかきます。ご子孫は福岡に住んでいて事業をしています。私の友人で時々お会いします(HAN) ■ ながつぐ(ややこしくて変換してません)の屋敷の長屋門です。舗装で道路が高くなってしまったこと、門の前が側だったことでこんなミスマッチなガードレールがついています。(三浦 轍司) ■おそらく、今の厳原郵便局前の写真です。大きな武家屋敷の門がありました。現在は取り壊しており、発掘調査が行われています。(小僧)

写真 No.125 「石屋根倉庫」

写真 No.125「石屋根倉庫」 ■ ここは椎根の石屋根ですね。左がいちばん上流にあったものですが今は瓦になっています。(hatiyyu) ■ 父が学校の教師だったので、たしか、厳原町瀬というところの石屋根だとおもいます。(T.K) ■ 豆酘の臨海道路の横に一列に、並んでいる。倉庫は、全部石屋根でした。どんな交渉がなされたか知りませんが、瓦と交換されたとききました。その石屋根の石は、厳原のビジターセンターの玄関前の石畳だと聞きました。それか、本当なら、豆酘の財産を、なくした気がします。(豆酘の漁師) ■ 石屋根倉庫については、戦後に博物館員や古物商などが村々をまわって買収したという話を聞いたことがあります。「新品の瓦の屋根にしてあげますから」とかなんとか。石屋根は管理が大変なので、みんな飛びついたのかも知れませんね。九州の肥後民家村、湯布院民芸村などには、対馬の石屋根倉庫がそのまま移築・展示されているそうです(エヌ@管理人) ■ 豆酘の屋根石は、多久頭魂神社鳥居前80メートル付近を、堀り起こすと、あるそうです。ほしい方は、重機等で、地主の許可を、得て掘ってみませんか。たくさんあると思いますよ。豆酘の屋根石は、島山の石では、ありません。地主さんの、床の間には、堀り起こした、綺麗な石が飾ってありますよ。(豆酘の漁師) ■ 石屋根の石の出どころについて、記述が城田吉六氏の「対馬の庶民誌」の68~70ページに散見されます。(三浦 轍司)

写真 No.126 「旧厳原町佐須支所」

写真 No.126「旧厳原町佐須支所」 ■ 旧厳原町役場佐須支所だと思います。(ひみつ)

写真 No.127 「金石城・旧櫓門」

写真 No.127「金石城・旧櫓門」 ■ 公民館講座「対馬歴史散策」で勉強した際、現在のやぐら門2階で同じ写真を見ました。1817年再建され1917年(大正8年)に撤去されたそうです。(おうちゃん) ■ 金石城ですね。小学校の時に教室とかにあった冊子に載ってました。(h)

写真 No.128 「旧日新館・現裁判所付近」

写真 No.128「旧日新館・現裁判所付近」 ■ 現在の裁判所の所です。現在の裁判所は,その昔,旧日新館の屋敷があったところです。裁判所が建て変わる前は,旧日新館の姿を強く残した裁判所だったのです。道路を挟んで左側に見えるのは,国道沿いの酒屋さんの近くです。(HK)

写真 No.129 「対馬交通バス・運転手・バスガイド」

写真 No.129「対馬交通バス・運転手・バスガイド」  

写真 No.130 「旧日新館の門?」

写真 No.130「旧日新館の門?」 ■写っている式台に延びる敷石の角度が決めてです。門の敷石は御影石だったのに、この式台までの石は赤い石でした。(三浦 轍司)

写真 No.131 「綱引き・写真114の全体」

写真 No.131「綱引き・写真114の全体」  

写真 No.132 「厳原港付近・立亀岩下」

写真 No.132「厳原港付近・立亀岩下」 ■向うに志賀の鼻が見えます。立亀の下、北寄りの場所から取ったものですね。影から昼過ぎだろうと察せられます。(三浦 轍司)

写真 No.133 「松ノ木・精米所・製材所・豆酘」

写真 No.133「松ノ木・精米所・製材所・豆酘」 ■ 豆酘郵便局、阿比留釣具店、神田橋、から東10メートルぐらいの、左はしに松ノ木がありました。この松ノ木の下は、馬、牛、の去勢場所でした。写真、右の建物は、精米所です。写真には,写っていませんが、建物の左右に製材所がありました。(豆酘の漁師)

写真 No.134 「大町通り・長屋門・旧郵便局」

写真 No.134「大町通り・長屋門・旧郵便局」 ■ 大町通り、左がやまや旅館長屋門、右が旧郵便局、今の森木材の駐車場(山)

写真 No.135 「対馬高校・体育祭」

写真 No.135「対馬高校・体育祭」  

写真 No.136 「お船江」

写真 No.136「お船江」  

写真 No.137 「お船江」

写真 No.137「お船江」  

写真 No.138 「厳原町瀬・予察灯」

写真 No.138「厳原町瀬・予察灯」 ■ 瀬地区じゃないですかねぇ?後ろが真浜かな?そんな気がしますがちがうかも!(杉)

写真 No.139 「砂利の小茂田浜・武者行列・鳴弦の儀」

写真 No.139「砂利の小茂田浜・武者行列・鳴弦の儀」 ■ 中学まで金田中でした。この浜はよく遊びに行きました。小茂田浜神社のお祭りは大イベントでした。今は横浜に住んでいて昔を懐かしんでおります。ここに帰りたいとよく思います。ここに住んでおられる若者、ここを離れてはいけない。つくづく思います。(河上 博美) ■ 今では海岸線が変わってしまったけど、間違いなく小茂田浜神社の裏の海岸です。お祭りのお下がりの一こま(エリー)

写真 No.140 「砂利の小茂田浜・武者行列・鳴弦の儀」

写真 No.140「砂利の小茂田浜・武者行列・鳴弦の儀」 ■ 小茂田浜神社の大祭。朝鮮半島に向かって弓を引く神事です。蒙古襲来に思いをはせ、大軍を迎え撃った対馬の守備隊の勇戦を思う、国難の記憶なのですが、最近、みかけた祭りは、朝鮮半島側に配慮して、海峡に弓を向けないようになっていて、とても遺憾です。隣国に配慮してのことでしょうか。旧に復してもらいたいですね(厳原にいました)

写真 No.141 「漁船・漁業」

写真 No.141「漁船・漁業」  

写真 No.142 「川の作業?」

写真 No.142「川の作業?」  

写真 No.143 「漁船・漁業」

写真 No.143「漁船・漁業」  

写真 No.144 「漁船・第一全栄丸」

写真 No.144「漁船・第一全栄丸」  

写真 No.145 「漁船・漁業」

写真 No.145「漁船・漁業」  

写真 No.146 「魚を干す風景」

写真 No.146「魚を干す風景」  

写真 No.147 「対馬縦貫道工事」

写真 No.147「対馬縦貫道工事」  

写真 No.148 「対馬縦貫道工事」

写真 No.148「対馬縦貫道工事」 ■ 対馬100年史にある建設中の縦貫道。(森 正孝)

写真 No.149 「対馬縦貫道工事」

写真 No.149「対馬縦貫道工事」