
対馬古写真図鑑(写真 No.150~190)
- 対馬のできごとあれこれ(1956-1985年)
- 写真 No.01~49
- 写真 No.50~99
- 写真 No.100~149
- 写真 No.150~191
- 1. 写真 No.150 「木材搬出の様子」
- 2. 写真 No.151 「木材搬出の様子」
- 3. 写真 No.152 「木材搬出の様子」
- 4. 写真 No.153 「豆酘行きのバス」
- 5. 写真 No.154 「万松院祭りの様子」
- 6. 写真 No.155 「万松院祭りの様子」
- 7. 写真 No.156 「万松院祭りの様子」
- 8. 写真 No.157 「はぎとうじん・豆酘の女性・対州馬」
- 9. 写真 No.158 「漁業協同組合・雑貨屋・豆酘」
- 10. 写真 No.159 「板方?豆酘?」
- 11. 写真 No.160 「はぎとうじん・豆酘の女性・対州馬」
- 12. 写真 No.161 「船ぐろう大会・鴨居瀬」
- 13. 写真 No.162 「厳原八幡宮大祭・神輿」
- 14. 写真 No.163 「厳原八幡宮大祭・おさがり」
- 15. 写真 No.164 「厳原港船着場・男島丸」
- 16. 写真 No.165 「万関橋・万関運河」
- 17. 写真 No.166 「厳原港船着場」
- 18. 写真 No.167 「厳原港管理事務所」
- 19. 写真 No.168 「旧海上保安部・厳原港」
- 20. 写真 No.169 「鴨居瀬・幸崎」
- 21. 写真 No.170 「豆酘崎途中から見た神崎」
- 22. 写真 No.171 「浅藻(あざも)集落」
- 23. 写真 No.172 「厳原~小茂田の道路」
- 24. 写真 No.173 「浅茅湾の渡海船」
- 25. 写真 No.174 「厳原八幡宮・厳原中学校制服」
- 26. 写真 No.175 「厳原八幡宮・お祭り」
- 27. 写真 No.176 「川端通り・厳原本川・一橋・柳橋」
- 28. 写真 No.177 「厳原八幡宮・お祭り」
- 29. 写真 No.178 「厳原八幡宮・お祭り」
- 30. 写真 No.179 「厳原八幡宮・お祭り」
- 31. 写真 No.180 「川端通り・丸栄」
- 32. 写真 No.181 「天道茂付近?厳原小学校手前」
- 33. 写真 No.182 「厳原八幡宮・お祭り」
- 34. 写真 No.183 「川端通り・丸栄前」
- 35. 写真 No.184 「旧対馬支庁前・道路」
- 36. 写真 No.185 「旧電気会社・宇田文房具店・道路」
- 37. 写真 No.186 「大坪家具・稲垣文房具店・道路」
- 38. 写真 No.187 「厳原八幡宮前・お正月?」
- 39. 写真 No.188 「川端通り・瀧本金物店・栗山食料品店ほか」
- 40. 写真 No.189 「九州郵船船着場」
- 41. 写真 No.190 「対州丸・お見送り・昭和40年」
写真 No.150 「木材搬出の様子」
写真 No.151 「木材搬出の様子」
写真 No.152 「木材搬出の様子」
写真 No.153 「豆酘行きのバス」
写真 No.154 「万松院祭りの様子」
写真 No.155 「万松院祭りの様子」
写真 No.156 「万松院祭りの様子」
写真 No.157 「はぎとうじん・豆酘の女性・対州馬」
写真 No.158 「漁業協同組合・雑貨屋・豆酘」
■ 写真中央、右よりの、壁が白っぽく見える二階家と、その右の平屋は、豆酘村の漁業協同組合です。又、その右に見える二階屋(煙の前)は、雑貨屋でしたが昭和34年の14号台風の大波で、跡形もないようなりました。もちろん船も全半壊しました。右端の屋根に影がある木は、松の木ですが私が、小学校6年の時には、枯れて枝がなかったような気するのですが?(豆酘の漁師)
写真 No.159 「板方?豆酘?」
■ 豆酘じゃないですか?上の右の方、今の「いたんかた」だと思うのですが。(M)
写真 No.160 「はぎとうじん・豆酘の女性・対州馬」
写真 No.161 「船ぐろう大会・鴨居瀬」
■ 美津島町鴨居瀬です。舟ぐろう大会の模様だと思います。(阿比留 伊勢男)
写真 No.162 「厳原八幡宮大祭・神輿」
写真 No.163 「厳原八幡宮大祭・おさがり」
■ 撮影された場所は旧郵便局の前辺り。 建物は山や旅館の長屋門。電話373番の江副食堂と、野間理髪店が写っています。(三浦轍司) ■ 若かりし頃の祖父(三宅)です。何故か早くから髭を伸ばしていました。初めて見た馬上の写真です。(松江)
写真 No.164 「厳原港船着場・男島丸」
■天狗山から海上保安部側に寄ったところから桟橋を見たもの。男島丸ですね。船首、船尾、操舵室の赤い屋根が特長です。桟橋の右側岸壁が斜めになっていたのでしたね。その後、造船所側に海上保安部のための岸壁が整備されて、向うまで行かないとCP船を見ることが出来なくなりました。昭和31年頃のことです。カラー写真があったのですね。(三浦 轍司)
写真 No.165 「万関橋・万関運河」
写真 No.166 「厳原港船着場」
■ 写真左下の長細い屋根は倉庫でした。2階建ての建物はお土産屋さんです。1960年ごろには、桟橋への道路を拡張するために山を削ったので、そのときに消滅しました。(三浦 轍司) ■おそらく厳原町港だと思います。住田商店の横にある、私の小さい頃は、立亀岩(たてがみいわ)と呼んでいました。岩の上からの写真だと思います。(小僧)
写真 No.167 「厳原港管理事務所」
■ 厳原港の管理のため、人間の立っている所辺りに管理事務所兼宿舎があり、管理所の前から海までの間に木製の通用門が設置されていた時代のものと思われる。(桟原久之助) ■ 私が幼稚園の頃昭和29年ごろに立亀の岩肌に「○×丸」とペンキで漢字がかいてあり、船でもないのにと不思議に思ったものです。小学校に行き始めてその字も薄らいだのですが、この写真には、どうも、字の痕跡が残っているようです。(三浦 轍司) ■ 厳原港だと思います。後ろの大きな岩は、立亀岩(たてがみいわ)と私の小さい頃は呼んでいました。現在の新出光の前からの写真だと思います。(小僧)
写真 No.168 「旧海上保安部・厳原港」
■ 茶屋町から立亀を越えて倉田さんのお宅のほうへ下りる手前から写したものですね。左端に耶良へ行く道が写っていて懐かしいです。外の防波堤が、まだ全く気配すらありません。(三浦 轍司) ■ 多分、旧海上保安部、今は、彩光園が建っている(山)
写真 No.169 「鴨居瀬・幸崎」
■ 奇蹟的にもボクの父、祖父が産まれた家に間違い無さそうです。美津島町鴨居瀬、地元の人たちは『幸崎(こうさき)』と呼んでいたそうです。 少なくとも40年以上前の写真ではないでしょうか(hacozaki)
写真 No.170 「豆酘崎途中から見た神崎」
■ これは豆酘崎に行く途中から写した神﨑ですな!(宗丸)
写真 No.171 「浅藻(あざも)集落」
■ 浅藻の集落。東沿岸の県道を厳原から豆酘に向けて車を走らせると,4つの隧道(トンネル)を通り抜けることになります。その4つ目の隧道を抜けたとき,すぐ眼下に広がる集落が浅藻です。夕日がとってもきれいに見える所でもあります。(HK)
写真 No.172 「厳原~小茂田の道路」
■ 私もこの道はよく覚えています。私も床屋に住んでいました。東邦亜鉛の会社があって親が働いていました。懐かしいです。今 考えたらいいところです。この自然と山の連なりに郷愁を感じます。故郷はいいですね。(河上 博美) ■ これは、小茂田、佐須から厳原に行く一本の道路で、平坦に上見坂峠に通じる道路です。但し、(かなり佐須から登った所です。)私は昭和25年~30年まで佐須、床屋に住んでいました。樋口光民です。(樋口)
写真 No.173 「浅茅湾の渡海船」
■ 祖父が乗っていた船です。朝鮮満州などを行き来する船会社から合併して渡廻船になりました。とても懐かしく拝見いたしました 三浦さん ありがとう!おしえてくださって!(徳田 敏子) ■ 浅茅湾の渡海船のようです。幼い頃、家族で何回か浮島荘に行ったことが有ります。浮島から出る時は吹流しをあげて渡海船に寄ってもらっていました。(フォルツァ)
写真 No.174 「厳原八幡宮・厳原中学校制服」
■ 楼門をくぐって秋の祭礼の拝殿を見たところで、これは現在とほとんど変わりがなく、厳原中学校のセーラー服の当時の制服姿です。(三浦 轍司)
写真 No.175 「厳原八幡宮・お祭り」
■ 影の形からお昼くらいですが、神輿が二基写っています。訥庵先生の碑の前辺りから撮影したものですね。水晶の形の白亜の慰霊碑が出来たのが昭和34年だったように思います。慰霊碑の左側は倉庫。それらの向うに電気会社と言っていた九電が写りこんでいます。(三浦 轍司)
写真 No.176 「川端通り・厳原本川・一橋・柳橋」
■ たろさん、その通りですね。薬局の裕子ちゃんは今では女医さんです。kiyoさん一緒に走り回った年代ですかね?走り回って写真の右手に有った柳屋旅館の前のおいしい井戸水を飲んだり副島のおばあちゃんの店の山盛りのカキ氷を食べたり。(フォルツァ) ■ 一ツ橋ですかね? 左手 副島時計店。 右手 富田薬局 かなぁ~? 港に向かって写していますよね?(たろー) ■ すずらん灯が懐かしいです。この頃の子供たちは皆元気に川端を走り回って遊んでいました。(kiyo) ■ 一ツ橋の親柱には「柳橋」と刻んだものと、「やなぎばし」と二種類あり一ツ橋とは書いてありませんでした。橋が名前を二つ持っていたのでしょうか。頭を隠した人物のところは岸原の染物屋があった辺りです。笠淵にも「柳橋」があり、古い柳の木がありました。(三浦 轍司)
写真 No.177 「厳原八幡宮・お祭り」
写真 No.178 「厳原八幡宮・お祭り」
■お祭りの時に相撲があったことを一度だけ覚えています。土俵の四隅に柱を立てて紅白の布で巻いてあったからです。写真左の瓦葺の屋根は八幡宮の倉庫。この写真は絵馬堂の右端の近くから撮られたのですね。(三浦 轍司)
写真 No.179 「厳原八幡宮・お祭り」
■ 時間からすると、神輿が帰還するのを待っているような、感じです。毎年担ぎにでた父は、握り飯と砂糖醤油に浸した裂きするめを持って、4時半頃に帰宅していました。(三浦 轍司)
写真 No.180 「川端通り・丸栄」
■ 写真右端にある三木さん宅の、久田石の石垣が懐かしいです。この場所が丸栄になる前は、木の塀と門があって中は昭和32年ごろ既に空き地でした。柳の木の向こう側は岸原染物屋が染物を水に晒すので、行き来しやすいように特になだらかでした。(三浦 轍司)
写真 No.181 「天道茂付近?厳原小学校手前」
■ 須賀建設と納富さんとの並びの、もう一つ北側のブロックの辺りからカメラを向けたのですね。ここは昭和32年の大火を免れた場所です。新築の白い二階家に学校の先生が昭和37年ごろに住んでおられました。測候所の建物の右側には、新築になった厳原小学校の建物が見えます。(三浦 轍司)
写真 No.182 「厳原八幡宮・お祭り」
■ こんなにも広かったのですね。遊月橋から鳥居の手前までコンクリート舗装がされていないので昭和37年ごろまでの写真ということになりますね。(三浦 轍司)
写真 No.183 「川端通り・丸栄前」
■ 私は、写真左のはしご段からさかさまにおちて、協立病院に母がおぶって駆け込んだと聞いてます。あの頃の母親達は強くて、そして、優しかったなあ。(kiyo) ■ 東川端通りをコンクリート舗装するたびに川に降りる事が出来なくなって、どこの家にあったのだろうと思えるような、木製の階段が吊るされました。そうやって、川端通りの表情が変化していったのですね。(三浦 轍司)
写真 No.184 「旧対馬支庁前・道路」
■ 写真左端は小山瞬輔先生のお宅。右端は庄野さんのお宅の門です。初めて車道と歩道が設けられた場所ですね。支庁の新しい建物が写真左手に見えますから、昭和39年ごろの撮影なのでしょうか。(三浦 轍司)
写真 No.185 「旧電気会社・宇田文房具店・道路」
■ 写真左は電気会社の門柱。対向する車のところは宇田文房具店です。(三浦 轍司)
写真 No.186 「大坪家具・稲垣文房具店・道路」
■ 写真左、大坪家具店、ガラス屋さん、嘉瀬さん。右側は稲垣文房具店。(三浦 轍司)
写真 No.187 「厳原八幡宮前・お正月?」
■道路がきれいにコンクリート舗装されていますね。掲揚された国旗、道を行く人の晴れ姿から、お正月と思います。(三浦 轍司)
写真 No.188 「川端通り・瀧本金物店・栗山食料品店ほか」
■ 西川端の瀧本金物店、栗山食料品店、上野こんにゃく屋、茂村薬局。東川端に中村そば屋が少しだけ写っています。富士というダンスホールがアイスキャンデー屋になって、その後はタクシー会社になったんですね。その北が片山靴店。袖振山を、こんなにもはっきり見ることができたのですね。(三浦 轍司)
写真 No.189 「九州郵船船着場」
■九州郵船が火災の後、鉄筋の二階建てになったのが昭和35年の春だったと思います。東沿岸船の乗り場ですね。朝8時半に博多行き、8時45分に西沿岸船、9時に東沿岸船が出ました。後ろに対州丸が見えますが、デッキの屋根にテントを張っていないので気候的に冬の前後なのでしょうね。(三浦 轍司)
写真 No.190 「対州丸・お見送り・昭和40年」
■ 昭和40年5月5日、遊びに来ていた知人たちを見送りに行ったときの、対州丸の写真です。(三浦 轍司)