対馬古写真図鑑(写真 No.01~49)

2024/06/22

【目次】

写真 No.001「紙芝居」

写真 No.001「紙芝居」 ■ 紙芝居の様子です。場所はどこでしょうか?

写真 No.002「大町通り」

写真 No.002「大町通り」 ■場所:江尻橋(石造り) 情報:江尻橋の南側から撮影 右側:2階建は、旧郵便局であり、前消防団2分団の格納庫(裏に浜殿神社有り)から横町通りを経て森木材店、協立病院、消防車格納庫、旧厳原公民館、池小路を経て茂村薬局の敷地の樹木が写っている。現在の郵便局と森木材店は相互に位置が変わっている。(旧郵便局は火災があった) 左側:端の欄干の左にあるのは、江崎菓子店、野間理髪店、それから高く屋根が見えるのが、江戸時代宗藩の古川家老の長屋門である。門の入口左側に江崎食堂、右側に食堂、履物店があった。樹木が写っているのは、山屋旅館のものと思われる。古川家老屋敷跡は山屋旅館であり、現在は文化財として発掘調査された後、道路敷となる。(桟原久之助)) ■左側の一段低い建物は岸原染工店ですね。岸原は昭和30年ごろには東川端の三木清氏宅の南側に引越ししていました。 空き家になったこの左手の建物は、短い間スマートボール場になりました。江崎は長屋門の中の野間散髪屋の南側にありました。 写真中央のエプロン姿は厳原幼稚園の幼児さんです。(三浦轍司) ■私が子どもの頃(昭和40年代)は、江崎かすまき屋は、お茶、かすまき、和菓子、そして、子どもに大人気の自家製あられ(今の羽衣あられとそっくり)があり、よく10円分買っていました。(ばら売りでした。)(山) ■左の一段低くなっている所は江崎かす巻き屋さん、その上手が山や旅館でした。(ふうちゃん) ■厳原町今屋敷の大町通りです。郵便局付近でしょうか(エヌ@管理人) ■郵便局の所ですね。右に写っているハイカラな建物が郵便局でしたよ。 左の一段低くなっている所には,たしかお茶屋さんが在ったような気がします。(杉)

写真 No.003「万関橋工事」

写真 No.003「万関橋工事」 ■ ここにも登場してますネ 暇な時には私も訪問してますヨ。このHPの中にもう一枚私が写っているのがありますヨ。探してネ 中三の時代。また何処かで会いましょう(隆之助) ■ いいぞ…いいぞ…!!ここまで出てきたとか…!!応援すっぞ…!!万関の架け替えの写真って初めて見ました。(河童) ■ これは1954・5年頃の2代目の架け替え工事です。奥が1代目、現在の3代目はあきらかに橋の形状が違います。3代目は1996年の架け替えであるし写真もカラ-の時代(隆之助) ■ この写真はどなたの提供でしょうか(来徳 愼次) ■ 万関橋3代目の工事中の写真。向側に見える橋が2代目であり、初代の橋はつり橋で板を敷いてあった。(桟原久之助)

写真 No.004「神崎灯台」

写真 No.004「神崎灯台」 ■ 平成18年12月に浅藻より歩いてこの灯台まで行ってきました。灯台の銘板に初点:明治27年9月、改築:平成2年12月と記されていました。16年ほど前に改築されたようですが灯台上部は、以前とほとんど変わっていません。(本山 和徳) ■ 間違いなく神埼灯台です。灯台の反対側には宿舎があり、家族で住んでいた時もあったようです。対馬の南端にあります。(アイシス) ■ 神崎の灯台ではないでしょうか。建物は少し補修されているようですが。 HP「自然の中で」→対馬の山→州藻から神崎半島へ縦走をご覧下さい。よく似てるでしょう。(岩魚)

写真 No.005「西鉄ライオンズ選手」

写真 No.005「西鉄ライオンズ選手」 ■ 私が厳原小学校の4年生か5年生の頃(昭和37,8年)だったと思いますが、西鉄ライオンズの稲尾選手、高倉選手が来島されたことを憶えています。その時の写真ではないでしょうか?撮影場所はたぶん、今は市民グラウンドになっている厳原中学校の校庭です。金石川を背に清水山方向を見ると、写真のような坂道が見えました。(小島 明) ■ 母から稲尾さんが他の野球選手と三人で雉撃ちに来たと聞いたことがあります。 上対馬の方ですが・・・・(米田 祐治) ■ 前回、この方が稲尾さんではないか?と書き込んだのですが、別の写真に一緒に写っていた方が稲尾さんではないか、とご指摘を受けました。この黒いシャツの方はいったいどなた?(エヌ@管理人) ■ 西鉄ライオンズの稲尾和久投手、という情報をいただきました。当時の事を御存知の方、いますか?(エヌ@管理人)

写真 No.006「厳原八幡宮前」

写真 No.006「厳原八幡宮前」 ■ 厳中ブラスバンド部が出来て二年目、1963年の写真です。八幡宮の下手から撮影したもの。トロンボーンに右から武藤、梯、三浦、その後ろにテューバの小倉の姿が見られます。(三浦 轍司) ■ 写真番号98の写真をみるとこの朝鮮総連?の建物は八幡宮の前ということになりそうですね(HAN)

写真 No.007「豆酘」

写真 No.007「豆酘」 ■ ツツやと思いますね。(h) ■豆酘のみかん山の下辺りからのショットですね。(山猫タイヤ)

写真 No.008「川端通り」

写真 No.008「川端通り」 ■ だんだんと思い出してきました^^。そういえば、池田のばあちゃん、いつもガミガミ言ってましたね(笑)(たろー) ■ 写真の前方左手に大西書店。右手のパチンコ屋さんの二階に「琥珀」が出きる前の写真ですね(たろー) ■ ライムさん、この橋は、池田の店から2つ目の橋で左手が東川端商店街で手前(写っていませんが)に食料品の栗屋、靴のやまさ屋が有り右手が西川端商店街(すずらん通り)で大阪屋さんが有りました。写真左側奥に立亀岩が見えます。ところで、池田の店のおばあちゃん、いたずらをしたら良く叱ってくれましたね。最近じゃよその子を本当に叱ってくれる方なんかおりませんよね。ありがとうございました。(フォルツァ) ■ 川端懐かしいですね。東川端に池田用品店?履き物店?があって、川の淵に階段があって綺麗な水が湧いてましたね。あの頃は水を飲む人が湧水の近くで次が野菜を洗う その下が洗濯や靴洗いみたいに自然と決まりがありましたね。(ライム) ■ この写真はやまさ屋の前の橋から川下に向かって撮った写真です。左前方に立亀岩が。(フォルツァ) ■ 橋を左側に渡ると職業安定所。右側は大阪屋衣料店。(三浦轍司) ■ 厳原町川端通りです。どの橋から撮影したんでしょうか?(エヌ@管理人) ■ 正面中央の橋は「大手橋」ですね。大手橋左の軒からひさしが下に伸びているあたりが今の大西書店あたりと思います。右のパチンコ屋の前は,川の上に屋棚をせりだして,自転車置き場にしてありました。(杉) ■ 池田のおばちゃん懐かしいですね、よく祖母と買い物に行ってました、そういえば 池田の前にポンプ式の井戸?その下の川で食器を洗い下の方で洗濯をしていました。うなぎも取れてましたよね(小田) ■ 撮影した橋は、現在は金比羅橋といっていますか、私は大正橋という名で記憶しています。港から数えて5番目の橋です。左側の三木の屋敷も解かれてしまいましたね。(三浦轍司)

写真 No.009「対馬高校・体育祭」

写真 No.009「対馬高校・体育祭」 ■ この写真が厳原町町報の表紙になった写真だとすると私が何処かに写ってます。対馬高校の運動会の応援写真ですよね~(おうちゃん) ■ これは昭和29年頃の体育祭のとき、扮装し応援しているわたしです。(樋口 光民)

写真 No.010「万関運河・船」

写真 No.010「万関運河・船」 ■ 西沿岸船の功丸(いさおまる)は厳原港で見る九州郵船の船の中では一番小さくて、東沿岸船の男島丸(おじままる)とすぐに区別がつきました。 進駐軍のタイヤが10本もあるトラックに混じって、豆酸行きのバスが、私の幼稚園の頃(1955)には走っていたように思います。水色に一部、小豆色のボンネットバスでした。馬は、今で言うマイカーだったのでしょう。 厳原幼稚園の桜橋の下に馬を下ろして、馬が草を食んだり、洗ってやったりしているのを、園舎の中からいつも見ていました。(三浦 轍司) ■ 初代万関橋は、昭和13年生まれの父が子どもの頃に歩いた経験があるそうです。板が腐っていて怖かったとか(^^;) 対馬新聞によると、2代目万関橋は、昭和28年から3年の歳月と3300万円の工費を投じ、西岡竹次郎県知事の時に竣工したようです。(西@管理人) ■ 確実な記憶ではありませんが、昭和23年~25年頃の写真ではないかと思います・・・当時、私が小学3年~6年生の頃に九州郵船の定期船の功丸で西海岸から東海岸へ向かった時の記憶がこの写真と同じ風景でした。 その後、長崎県知事の西岡竹次郎さんの時に現在のアーチ式の万関橋に掛け替えが行われたと記憶しています。私は現在69歳ですので多分55年~58年前の写真ではないかと思いますが・・・年度については若干の誤差があるかも分かりませんので悪しからずご了承下さい。(内山 勇一郎) ■ 昭和42年に小綱から小茂田まで船で引越しした記憶があります。当時は道路整備がされてなかったからか、船での移動も頻繁だったように思います。(JAN)

写真 No.011「久田道と松」

写真 No.011「久田道と松」 ■ 母親に見せると、間違いないそうです。(本田 憲児) ■ 久田道に42年まで住んでいましたが、海と道路との高さがあまりないようで、久田に行く道かなー?(本田 憲児) ■ 2年前迄、対馬に住んでました^^ よく桟原から久田まで、この道を走ってました。(きんじ) ■ 突き当たりは志賀の鼻の急カーブです。海岸寺の松は1955年ごろに枯れ、石垣を崩して、積み直していたことを思い出します。(三浦 轍司) ■ 今の美津島タクシーの駐車場あたりではないでしょうか?ちょうど桟橋が旧鈴木石油のスタンドの所の防波堤、その先に、チゴの鼻岬が見えますし。(JAN) ■ 久田道。現在の石井船具店あたりでしょうか?(エヌ@管理人)

写真 No.012「大雨の今屋敷」

写真 No.012「大雨の今屋敷」 ■ ダイジェスト版の対馬新聞によると、厳原町の今屋敷地区は何度も大水による被害を受けているようです。(エヌ@管理人)

写真 No.013「立亀岩」

写真 No.013「立亀岩」 ■ この写真を見て懐かしく思い投稿します。昭和41年から44年まで3年間(厳原中学時代)しか厳原にはいませんでしたが、よく友人と立亀岩に登って景色(とても見晴らしが良かった)を見ていたことと、集団就職する同級生や先輩がフェリーで旅立つのを見送った記憶があります。この写真はいつ頃かはわかりませんが、この風景は私のイメージにあります。(田中 芳文)

写真 No.014「横町通り・病院前」

写真 No.014「横町通り・病院前」 ■ 小島病院は電話番号が、164番。どこの病院も必ず4番がついていました。4(死)は病院に引き取ってもらうという切実な(?)洒落だったと、聞いています。小島病院の後を継いだ仁位病院も164の番号をそのまま使っていました。(三浦 轍司) ■ 母の妹が小島病院で入院したそうです。(本田 憲児) ■ 森玩具店辺りから撮ったものだと思います。1961年ごろは仁位病院、それまでは小島病院です。昭和の始めは森病院と言っていたそうです。(三浦 轍司) ■ 横町通りにあった病院は「小島病院」ではないか、と教えていただきました。(エヌ@管理人) ■ 厳原町・横町通り。病院があったそうです。道路はまだ舗装されていませんね。(エヌ@管理人) ■ 二人の紳士の歩いている後方左の漆喰塗りの低い家屋はいまの「よこまち屋」(岡部商店)ですね。そのずっとむこうの日が射している所の左が大西書店だと思います。ここの病院は何病院だったかは忘れました。(杉)

写真 No.015「郵便局」

写真 No.015「郵便局」 ■ うちの父も写っています!! 感激です! 左から5番目の まだ若かりし父の姿です。現在72歳 病気療養中です。もう一度対馬の地を 自分で踏めますように!!(いのっちです) ■ この中に叔父がいます。小原 充郎と言います。懐かしい写真です。(明日香) ■ 左に在るのが郵便局だから,年賀状配達の出陣式かな?わかりませんが・・・(杉) ■ 真中の1番奥に写っている帽子なしの人が私の祖父だと思います。郵便局長でした。田渕に住んでいました。(やす)

写真 No.016「長屋門・大衆食堂」

写真 No.016「長屋門・大衆食堂」 ■ 第2分団の消防自動車と思います 幼い頃はずいぶんと大きく感じたのですが。(フォルツァ) ■ こちらも今屋敷の大水の様子。「大衆食堂」「恵比寿商事小売部」の看板が見えます。(エヌ@管理人) ■ 大衆食堂と小売り部の間が,やまや旅館の入り口じゃなかったですかね?(杉)

写真 No.017「宮谷・武家屋敷」

写真 No.017「宮谷・武家屋敷」 ■ 私が住んでいた家のすぐ近所です。まっすぐ進んで左に上がると県の公舎があります。(takigawa) ■ 昭和38年くらいの厳原・宮谷裏の武家屋敷の石垣。うなぎが獲れ、茶碗を洗っていました。[古写真上映会より](エヌ@管理人) ■ 宮谷の武家屋敷跡周辺ですね。今とほとんど変わりない感じなのですぐわかると思います。(h)

写真 No.018「豆酘崎・映画のワンシーン」

写真 No.018「豆酘崎・映画のワンシーン」 ■ 当時の豆酘崎はジープが通れた。映画「玄界灘のおおかみ」のワンシーンではないか。はじめてカラーで映った映画で、人を殴って豆酘崎から落とすシーンがあった。[古写真上映会より](エヌ@管理人)

写真 No.019「大町通り・郵便局前」

写真 No.019「大町通り・郵便局前」 ■ 昭和10年頃、中田鉄工所の横に住んでいました。郵便局も良く覚えています。火の見櫓も記憶にあります。これは何時頃撮った写真でしょうか。(K・O) ■ 厳原町・大町通り。長屋が見えます(エヌ@管理人) ■ この火の見櫓によく登って遊んでしかられました。郵便局の横ですよね。(杉)

写真 No.020「神宮武商店」

写真 No.020「神宮武商店」 ■ 左側に神宮武商店、右側の奥に時計塔のような謎の建築物が見えます。(エヌ@管理人)

写真 No.021「大町通り・仮装行列」

写真 No.021「大町通り・仮装行列」 ■ この大町通りにはカセ化粧品店、大坪家具店稲垣弘文堂、背戸口菓子店、中田金物店、古賀呉服店、松井洋品店、太田金物店、名前は忘れたけんどスポーツ用品店・種屋さん・レコード屋さん、洋服の仕立て屋さん・旅館もあった。勿論武田商店・滝川薬局もありました。(ym) ■ 厳原・大町通りの十王小路(じょうしょうじ)前、八幡神社のお祭の仮装行列のワンシーン。左の薬局は滝川薬局。[古写真上映会より](エヌ@管理人) ■ 大町通りです。左の武田商店は、学研です。(山) ■ 「果実と食料品 武田商店」の看板が見えます。踊っている女性の列の奥に、唐傘に下駄履きのバンカラな男性が・・・。これも対馬?(エヌ@管理人)

写真 No.022「清水山からの厳原港」

写真 No.022「清水山からの厳原港」 ■ 桟橋の手前の岩を削ったあとが生々しく写っています。1960年ごろ、ここを削ったのです。 もう一つ、郵便局の南側太田商店の北隣に、二階建ての洋館が認められますね。これも1964年ごろには建て替えられて「タケフジ」と言う店に変わりました。(三浦 轍司) ■ 三の丸あたりからの画像でしょう。(h) ■ 多分、ビジターセンターの上のほうから撮った厳原港方面ですね。斜めに走ってるのが大町通り。郵便局が見えます。九州郵船の桟橋に泊っているのは対州丸かな?(JAN)

写真 No.023「夜の川端通り・厳原本川」

写真 No.023「夜の川端通り・厳原本川」 ■ 漁業が盛んだった頃の厳原町・川端通りの夜の風景です。イカや魚を追って全国から漁師さんが訪れ、川端の夜は空前の活況を呈していました。厳原町内だけでも銭湯がいくつもあったとか。(エヌ@管理人)

写真 No.024「イカ干しの光景」

写真 No.024「イカ干しの光景」 ■ 鈴木の家が写っています。西の浜が埋め立てを始めたのは1955年ごろだったように思います。それまではこの写真のように矢来が昔のままに残っていました。(三浦 轍司)

写真 No.025「川端通り・厳原本川」

写真 No.025「川端通り・厳原本川」 ■ この写真と№23の写真は同アングルですね (フォルツァ) ■ 多分、祇園前の橋から上方面を眺めていると思います。(山)

写真 No.026「魚の水揚げ・処理」

写真 No.026「魚の水揚げ・処理」

写真 No.027「立亀岩からの川端通り?」

写真 No.027「立亀岩からの川端通り?」 ■ 中央に有る橋の左側角が金石館、道路を挟んで長瀬薬局(当時も?)(フォルツァ) ■ 川端通り?を立亀岩の上から撮ったもの?(JAN)

写真 No.028「厳原郵便局前」

写真 No.028「厳原郵便局前」 ■ 火の見やぐらが、木製だった時代をはっきりとは記憶してはいないのですが、私はこの、新しくなった火の見やぐらと電話ボックスの間を通って幼稚園に通いました。昭和28年ごろです。黒い電話機があって、ハンドルをガリガリ、と回して受話器をとり、交換手に番号を告げると、「では、10円入れてください」といって、通話が出来ました。(三浦 轍司) ■ 郵便局,入って左側に木製の私書箱が並んでいました。(杉)

写真 No.029「宮谷の高等女学校」

写真 No.029「宮谷の高等女学校」 ■ 高等女学校は桟敷原の裏道りの高台に有ったと母に聞いたことがあります。昭和50年頃はそこに高校の寮が建っていましたが今は?(フォルツァ) ■ 1.今(H17年)の支庁の独身寮付近にあった対馬高等女学校ではないでしょうか。女学校は、昭和23年の学制改革でなくなっているのでそれ以前のもの。 2.H16年に77歳の方が15,16歳の頃のものだと思います。[古写真上映会より](エヌ@管理人) ■ この写真で見る限り厳原町今屋敷教員養成所だと思います。昭和32年に対馬を出ましたのでその後教員養成所がいつ廃校になったかは定かでない。(福岡在住の者)

写真 No.030「玄海オリンピック・豆酘」

写真 No.030「玄海オリンピック・豆酘」 ■ 豆酘中学校(現在の豆酘小学校)の運動場。ただ、走っている人が大人のようなので、玄海オリンピック(五島・壱岐・対馬の離島体育祭。昭和24~昭和46年まで行われた)ではないか。[上映会より](エヌ@管理人) ■ 豆酘中の運動会ではないかと思います。いつ頃でしょうか・・(C-NA)

写真 No.031「映画・鉄砲安の生涯・豆酘」

写真 No.031「映画・鉄砲安の生涯・豆酘」 ■ 昭和37年?ここは豆酘中学校の近くではとの情報がありました けど?本当でしょうか? 屋根の上のお兄さん達を知ってる人はいませんか(pegasus) ■ 厳中の出身の方の情報によるとここは鶏知では?との事です(pegasus) ■ 中学時代の恩師が何人かいますネ。同級生もいるし後輩もいます。この町は?村は?何処でしょうか?この時代に映画館があったのは厳原か比田勝か。佐須奈には無かったような気がするけど 誰か場所の特定が出来る方・・・懐かしい一枚です。(pegasus) ■ 昭和35~36年頃の中学校の全島大会ではないでしょうか?上県町のプラカ-ドの後ろにいるハンチング帽の先生に見覚えがあります。(sakenomi) ■ 「鉄砲安の生涯」の右側の幕は「猫が変じて虎になる」という映画です。これと前後して、「君恋し」という映画がかかったので私の中学時代です。昭和37年です。厳原では西川端の「公楽」が、夕方、女性の声で「街頭の皆様、こちらは公楽、公楽でございます」といって2本立て上映映画の解説をしていました。2週間上映するとフィルムが田舎回りをしたのです。(三浦 轍司) ■ 確か36年は比田勝で中学校の全島大会が在ったと思います。私が中2の時球技大会でバレ-ボ-ル選手で出ましたので・・。確か陸上競技と球技大会を上島と下島で交互にやっていように記憶しています。55歳~60歳位の方か学校関係の方なら記憶に在ると思います(sakenomi) ■ 36年、37年と近似値でほっとしました。 映画は半年以上も先くらいまで、こういう作品が製作されて配給されます、ということで、ポスターやチラシが映画館に張り出してありました。ですから、上映中でなくてもいろんな作品の名前が映画館にあふれていても不思議じゃないと思います。 私は、玄海シネマの横に住んでいたので、映画が大好きでそこで、この作品を見たのかもしれません。 シネマスコープという凹面の横に広がった画面で、勝新太郎扮する鉄砲安が、ロシアの皇太子を撃つ、というストーリーでした。記憶に色はついていないのでモノクロだったかもしれません。 36年の球技大会の日が判ればいいですね。(三浦 轍司) ■ ここは豆酘に間違いないですね。手前の映画関係の所が屋号がエンチって家です。 隣のナショナルの看板のある所は屋号デンキチです。その向こうが床屋さんで、その隣が竹岡商店でその先左に主藤石油店があります。私自身はたぶん3、4歳のはずなのでこの記憶はありません。(山猫タイヤ) ■『鉄砲安の生涯』は、ロシア皇太子を津田三蔵の襲撃から助けたことから起きる波乱万丈の生涯の映画です。製作年次は、1962年で、モノクロです。 当時の勝新はまだ大スターではないので、カラーではなく、『座頭市物語』も1作目はモノクロです。勝新の「座頭市」へのステップともなった映画だと思います。(さすらい日乗)

写真 No.032「お見送り・壱州丸」

写真 No.032「お見送り・壱州丸」 ■ 集団就職に限らず就職、転勤シーズンの3月頃は毎日のようにこんな風景が見られましたし、盆、正月にも。たぶん飛行機が就航した頃まで?立亀岩の下には、お土産物店が並び、色とりどりの紙テープが軒先にたくさんぶらさげて売られていました。なつかしい・・・・(フォルツァ) ■ 対州丸の前は、大衆丸という船がいました。(フォルツァ) ■ この写真の船は、窓やテラスの形状から壱州丸だと思います。(kidgoat) ■ 集団就職で厳原港から旅立つ情景でしょうか。(田中 芳文) ■ 壱州丸(600t)が就航したのは昭和32年、対州丸(650t)が就航したのは昭和38年とのことなので、昭和32~38年の間の写真なんでしょうね。集団就職が盛んなころでしょうか?(エヌ@管理人)

写真 No.033「お見送り」

写真 No.033「お見送り」 ■ タオルをふっているのは、九九才まで長生きした母の後ろ姿です。見送っている船に私と44年生まれの孫娘が乗っているはずです。当時の事が懐かしく思い出されます。(藤田 徳美)

写真 No.034「恵比寿神社のお祭り・久田」

写真 No.034「恵比寿神社のお祭り・久田」 ■ 久田道の恵比寿神社前(山)

写真 No.035「対州馬・はぎとうじん・美女塚」

写真 No.035「対州馬・はぎとうじん・美女塚」 ■ 美女塚ですね、この2人のモデルさん知ってます。(C-NA)

写真 No.036「豆酘中学校」

写真 No.036「豆酘中学校」 ■ 昭和30年代、台風で豆酘中学校のそばまで高波で海岸線が破壊され、写っている道路はその後の仮設の道路です。(N) ■ 時代ははっきりしませんが,豆酘中学校です。(現在の豆酘小学校の所です)公舎の左端に見えるのが,講堂(兼体育館《その当時の》)(川上 肇)

写真 No.037「厳原港・立亀岩」

写真 No.037「厳原港・立亀岩」 ■ 間違いなく厳原港です。右下の住田商店は、私の実家です。(今井) ■ おそらくNo11と同じ場所(美津島タクシーあたり)から撮影したものでは?右下の鉄筋の2階建ては住田商店です。(建物は今も同じで、昭和45年にはありました。)その右側に新出光GSがあって観光道路の上り口があります。(JAN) ■ 厳原港ではないでしょうか? 大きな岩に見覚えがあるのですが・・・たしか、いまはあのあたりから観光道路が通っているはずです。(kei)

写真 No.038「対馬駅伝大会・対馬新聞社主催」

写真 No.038「対馬駅伝大会・対馬新聞社主催」

写真 No.039「豆酘集落・港湾の空撮」

写真 No.039「豆酘集落・港湾の空撮」 ■ 手許に1957年10月25日発行の「岩波写真文庫 242 長崎県 -新風土記ー」があるのですが、その4ページ目の写真と船の配置が全く同一で、本は下、六分の一ほどがカットされています。(三浦 轍司) ■ ここは豆酘ですね!昭和30年以前の豆酘の写真だと思います。(豆酘の漁師) ■ 「2万5千分の1」地図で確認すると、地形・道路・海岸線がぴったりと合います。道路は今とほとんど変わっていませんが、漁港施設(防波堤・護岸・繋留場など)が大きく様変わりしています。(岩魚) ■ 多分、移転前。あくまで豆酘と仮定しての話ですが、他の写真で”豆酘中の運動会ですね。いつ頃でしょう?”と書いてあった校舎は現存してて、厳原方面から下った坂の右側にあるはずです。(旧校舎?1年以上行ってないけど)。 この写真で言うと、現在は、左側・海岸よりの森(?)のあたりには鉄筋の小学校が建っていて、駐車場になるかな?中学校はもっと左の、写真には写らないはみ出した位置にあるのではないでしょうか?川の河口近くの道路と交差するあたりの、NTT豆酘局もその向かいの釣具屋さんもなく、田んぼのままなので、それ以前の写真かも?しかし、清水丘厳中の写真もそうだけど、これってどこから撮ってる?航空写真かな?(Jan) ■ 確かに川や交差点の位置関係ははまってますね。ただ気になる点が…。中学校が写ってないみたいで…。(撮影時、中学校があったかどうかはわかりませんが)(h) ■ 街の真ん中の交差点や川の位置、路地の感じが豆酘っぽい気がします。豆酘の人に見せてみたらどうでしょう?(JAN)

写真 No.040「厳原八幡宮前」

写真 No.040「厳原八幡宮前」 ■ 懐かしいですね、小学校の3年間を対馬で過ごしましたが、亡くなった兄と、よく八幡宮には遊びにいきました。(takigawa) ■ 右側は第一鳥居、石垣、樹木は松。左側は友納教科書取扱店。(桟原久之助) ■ 提灯が吊るされたのは秋の祭礼の頃です。1955年、私が幼稚園の頃に見た左側の敷地は電電公社が立つ前で、広い空き地でした。 そこには電信柱が積んであったり、ケーブル線を巻くための大きな平たい糸巻きのような形をした木製のものが転がしてありました。建造物があるということは、それ以前ということになります。(三浦 轍司) ■ 誰が見ても、これは、八幡神社のとこでしょう。(h) ■ 子供の頃、八幡宮では、夏休みにラジオ体操をしていました。今は駐車場になっていますね。(やす)

写真 No.041「川端通り・大手橋?」

写真 No.041「川端通り・大手橋?」 ■ もしかしたら大手橋の平間商店? もしくは反対側の何でも屋? ご意見を(HAN)

写真 No.042「厳原港・清水山から?」

写真 No.042「厳原港・清水山から?」 ■ これは厳原港ではないですねー。もしかしたら私の生まれた比田勝港かもしれません。湾の中央に左からのびる岬にある建物が昔の豊崎漁協の建物に似てます!でも 人の記憶は定かではありませんからー。この写真の時代はまだ生まれてなかったし(^^) (りょうた) ■ 厳原町です。三ノ丸から見た景色かな?(糸瀬) ■ 厳原ですよ(matue)

写真 No.043「厳原港・明治44年」

写真 No.043「厳原港・明治44年」 ■ 中ヤライ、今は、埋められて対州海運等が建ってます。その先が厳原大橋、山は、立亀です。(山)

写真 No.044「格納庫・遊び場」

写真 No.044「格納庫・遊び場」 ■ 平間果物店と中村そば屋の間を通って突き当たり、法眼さんの鳥居の北側に、消防と私達が呼んでいた遊び場所がありました。電柱の向うは井戸で、この扉は格納庫です。 お隣は橘さん、この場所から、川本さんのおうちに上がる道がありました。昭和33年ごろには石の井戸枠はなくなっていたように思います。(三浦 轍司)

写真 No.045「厳原八幡宮前」

写真 No.045「厳原八幡宮前」 ■ 厳原八幡前ですね。右端のハイカラな部分は当時の「西日本相互銀行」だと思います。(現在の西日本銀行)(杉)

写真 No.046「川端通り・大正橋」

写真 No.046「川端通り・大正橋」 ■ この橋を渡ると東川端、北側が職安、南側がヤマサ屋でしたっけ東島の履物屋さん。大正橋という名前の橋です。 柳に隠れているのは井形金物店でしょうか。(三浦 轍司) ■ これは,大手橋の一つ川上の橋と思います。何橋だったかな? 橋の右側にちょっと見えているのが,「つかさ屋」さんと思いますが・・・(杉)

写真 No.047「万関橋・工事の様子」

写真 No.047「万関橋・工事の様子」 ■ この写真は万関橋だそうです。(宮地 信太郎)

写真 No.048「川端通り・厳原本川」

写真 No.048「川端通り・厳原本川」 ■ 右から二軒目はつたや旅館でしたっけ。その奥の電信柱の向こうが中村そばやの建物です。(三浦 轍司)

写真 No.049「厳原八幡宮・境内」

写真 No.049「厳原八幡宮・境内」 ■ 厳原八幡宮本殿だと思います、右手前は能舞台みたいになっていたと思います。正面本殿右奥は、社務所でした。左手やや奥は手水場がありました。(齋藤)