中対馬ガイド養成「大船越~姫神山砲台~万関」編

2021/07/13

対馬の砲台

 こんにちは、観光担当Nです。

 2011年10月8日(土)、中対馬地区ガイド養成事業の現地研修会を行いました。

 今回のテーマは、対馬を中心とした幕末から明治にかけての日露関係で、美津島町の大船越(おおふなこし)・姫神山(ひめがみやま)砲台・万関橋(まんぜきばし)などを歩きました。

大船越

 大船越は、江戸時代、対馬藩三代藩主・宗 義真(そう よしざね)によって掘り切られた人工の瀬戸です。

 対馬は南北82キロの長大な島で、船で迂回するのがたいへんでしたが、開削により交通の利便性が劇的に向上しました。

勉強会の様子

 ところが幕末の1861年(ちょうど150年前)、対馬の一部(美津島町昼ヶ浦の芋崎)がロシアの軍艦に占拠され、ここ大船越の関所で2名の死傷者が出るという事件が起きました(ポサドニック号事件)。

 幕府は独力でロシアに対抗できず、イギリス軍艦の力を借りてロシア軍艦を追い出しましたが、幕府の無力さを露呈する結果となりました。

姫神山砲台

 支障木の伐採などの整備が進む姫神山砲台です。

 ロシアの南下政策に対抗するため、明治政府は対馬に海軍基地をつくり、18基もの砲台を建設しました。

 昭和期の砲台もあわせると合計31基にもなり、臨時砲台を加えるとその数はさらに膨らみます。

 対馬はまさに要塞島だったのです。

姫神山砲台・砲座

 日露戦争時の代表的な砲台「28センチ榴弾砲」が6門設置されていました。

黒島を望む

 黒島を望みます。砲台は基本的に高所にあるため、展望のよさも魅力のひとつです。

万関展望所

 姫神山砲台を後にした一行は、同じく支障木が伐採された万関展望所へ。

 大船越では軍艦の通行が困難だったため、明治の海軍が掘り切った人工の瀬戸が万関瀬戸(久須保水道)。

 日露戦争の日本海海戦では、この万関瀬戸を通って水雷艇・駆逐艦が出撃し、大きな戦果を挙げました。

 現在、万関瀬戸の上には赤い鉄橋がかかり、観光名所になっています。

 こうして、幕末から明治にかけての対馬の歴史の現地勉強会が終了したのでした。

 参加されたみなさま、お疲れ様でした。