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対馬要塞・幻の32番目「高浜演習砲台」について
こんにちは、対馬は、あちこちを歩きまわると本当にいろんなものが見つかるなあ、とあらためて感じているエヌです。
ほかの地域では、開発・整備が進んでいるので新発見は難しいと思うのですが、対馬はまだまだその余地があるようです。
たとえば!
対馬には明治から昭和にかけて計31ケ所の砲台跡があるとされ、築城の記録がないのに現地にしっかり遺構がある「大山(おやま)砲台」なども含まれているのですが・・・
今回、「高浜演習砲台跡」(現・対馬グランドホテル)周辺を歩いてみると、しっかりと遺構・連絡路が残っており、32番目の砲台跡と呼んでも差支えがないのでは?と感じたので、そのレポートです。
高浜演習砲台
「高浜」は、対馬南部の東海岸に位置する漁港で、明治期に砲兵大隊・司令部、大正期に対馬要塞司令部が置かれていた鶏知村(けちそん。現・対馬市美津島町鶏知)の一部で、古くから対馬海峡と浅茅湾(あそうわん)を結ぶ重要な拠点でした。
その高浜に高浜演習砲台があり、戦後は国民宿舎「対馬」、そして現在は「対馬グランドホテル(長崎県対馬市美津島町鷄知甲41-10 Googleマップ)」になっています。
明治期から昭和期にかけて、文字通りの演習(訓練)用の砲台として、24cm加農砲、28cm榴弾砲、15cm加農砲が配備され、現在は駐車場に赤ペンキで「弾薬庫跡」と書かれた小さな遺構が残されているだけ・・・
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とされていますが、その横の丘の上(標高33.4m)には、
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砲弾の一部が落ちていたり、
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ヤブだらけでわかりにくいのですが、砲座(?)らしきコンクリートの構造物が残されています。
というのがこれまでの状況だったのですが、防衛大学校のY先生に教えていただいたアジア歴史資料センターの資料には、砲台跡とその連絡路が記されており、現地を歩いてみると・・・
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出た、陸防(境界標石)。これがあると、高確率で近くに砲台があります。
しかも石造りなので、おそらく明治期のもの。
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人為的に整地された壕のようなものも。
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おそらく、砲座。
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大きな掘削跡。
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海岸に出ました。
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コンクリート製の昭和の陸防。記録通り、明治から昭和にかけて利用されていたようです。
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立派な石積みもありましたが、砲台関係なのか、段々畑?など他のものなのかは不明。
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ツシマスベトカゲ(^^;)
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指令所?らしき、コンクリートの建物。表面にデコボコが偽装されています。
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かなり破壊された痕跡が・・・。
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石柱。測量用?
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石の円柱もありました。切り込みは東南東120度を指しています。
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トイレ?何でしょう?
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お、出口!と思ったら
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対馬グランドホテルの駐車場に出ました。連絡路の出入口はここだったようです。
すぐ近くの駐車場横に標高33.4mの丘(砲弾の一部があるところ)があり、そこ(だけ)が高浜演習砲台跡だと思っていたのですが、実際にはかなり広い範囲に広がっていたことがわかりました。
32番目の砲台跡認定、いかがでしょう?? (珍百景の認定みたいやな)
おまけ(軍都 鶏知)
美津島町鶏知(みつしままちけち)は、高浜を含むかなり広いエリアで、明治期の日清戦争・日露戦争時代の雰囲気を今に伝える「軍都」です。
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高浜には対馬要塞司令および兵隊の宿舎があり、その建物跡も残っています。現在はコンクリートでコーティングされていますが、かつてはレンガ塀でした。一部が露出しているのがわかりますか?
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鶏知中学校は対馬要塞司令部跡に建設されており、司令部の正門が鶏知中学校の門として利用されています。
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また、その他の門柱も、対馬要塞重砲兵連隊跡の碑とともに近くに移設されています。
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対馬要塞司令部では、軍用伝書鳩も飼育されていたようで、鳩の碑があります。この土地の屋号は「ポッポ屋」だとか(笑)
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住吉神社には、日露戦争時の日本軍の敷設水雷(浮標水雷缶?)が奉納されています。日露戦争後、廃兵器となった敷設水雷が日本各地で無償下賜され、神社に祭られるケースが多かった、という記録があるのですが、鶏知・住吉神社の場合はどうなんでしょう?
詳しい情報をお持ちの方、お待ちしております。
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日露戦争(日本海海戦)時、対馬の人々はバルチック艦隊の多くの敗残兵・漂着兵を助けたのですが、不幸にも命を落としたロシア軍人が5名おり、鶏知中学校(対馬要塞司令部跡)から800mほどの山中に、忠霊塔(表忠碑/ロシア軍人の碑)があります。
厳原(いづはら)町の中心部は、江戸時代に栄えた対馬藩の城下町なのですが、美津島町鶏知(高浜ふくむ)はまさに、明治期~大正にかけての対馬の歩みを今に伝える軍都なのです。