深浦水雷艇隊基地

「深浦水雷艇隊基地跡」の土木学会選奨土木遺産認定について

2021/07/13対馬砲台群

 2011年11月18日(金)、対馬市美津島町竹敷の「深浦水雷艇隊基地跡」が、公益社団法人「土木学会」の「土木学会選奨土木遺産」に認定されました。

 もともと土木学会の「日本の近代土木遺産」でAランク(建築物として国指定重要文化財レベル)に指定されていましたが、今回その価値があらためて認められたことになります。

 長崎県下では、対馬市の「深浦~」に加え、長崎市の「出島橋」「本河内高部堰堤」「小ヶ倉(水道)堰堤」、佐世保市の「山の田浄水場群」の計5ヶ所が認定されています。

 認定理由は以下のとおり。(原文は漢数字)

 「日本海軍初の要港部として設置された竹敷海軍要港部の一角をなし特に石ドックは誇るべき近代遺産であります。

 本学会ではその歴史的土木施設としての高い価値に照らしてここに平成23年度土木学会選奨土木遺産と認定いたします。

平成23年11月18日
公益社団法人 土木学会
会長 山本 卓朗

「対馬歴史観光ガイドブック」 こぼれ話「竹敷と鈴木貫太郎」

 1894~95年の日清戦争の頃、対馬・竹敷の水雷艇隊に若き鈴木貫太郎がいました。

 多くの国々が「眠れる獅子・清」の勝利を予測しましたが、日本は50tほどの水雷艇と魚雷の有効性に着目し、東洋最強とされた清の戦艦「定遠」(ドイツ製、7000t超級)を魚雷で擱座・自沈させ、勝利しました。

 10年後の日露戦争(日本海海戦)では、鈴木貫太郎はバルチック艦隊の進路に悩む秋山真之を激励、自らも第四駆逐隊司令として竹敷を出撃し、バルチック艦隊の残存艦(戦艦3隻、巡洋艦2隻)を撃沈する大戦果をあげました。

 2・26事件で青年将校に襲撃されるも一命を取り留め、第2次大戦末期には、昭和天皇の懇請により総理大臣に就任、戦争を終結させた8月15日に総辞職します。

 戦後も戦争続行派から命を狙われ、引越しを繰り返しながら、3年後に死去。

 「不死身の鬼貫」は、日本が世界の大国と戦い続けた明治~昭和期を現場で生き抜いた稀有な人物でした。

深浦の場所はここ
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>>対馬市美津島町竹敷深浦

※対馬の海水を使った藻塩などを製造している(株)白松(対馬竹敷工場)のすぐ裏です。