対馬要塞地帯標

対馬砲台群調査 折瀬鼻(おりせばな)砲台・深浦水雷艇隊基地

2021/07/13対馬砲台群

「対馬神社群」の調査が一段楽したので、現在、「対馬砲台群」にはまっているNです(^^;)

 2月6日(日)と14日(月)に、「対馬観光ガイドの会やんこも」のみなさんと、砲台の現地調査を行いましたので、一部をご紹介します。

 その前に、ご説明を。

 対馬は古代から海上交通の要衝であったと同時に、外国にもっとも近い国防の最前線でもありました。

 江戸幕末の1861年(ちょうど150年前)、ロシア軍艦「ポサドニック号」が対馬の浅茅湾の一部(芋崎)を占拠し、島民に死傷者が出るという出来事(ポサドニック号事件)が発生しました。

 幕府にはロシア軍艦に対処する実力がなく、イギリス軍艦の力を借りてロシア軍艦を追い払うことができたものの、外国への無力さを露呈する象徴的な事件となりました。
(当時、海軍国家であるロシアとイギリスは、互いに牽制しあっていました)

 明治時代になり、ロシアの露骨な南下政策に直面した政府は、伊藤博文・山県有朋・大山巌などの重鎮を対馬に派遣し、その軍事的重要性を再確認。明治20年ころから対馬の要塞化が始まります。この工事は、東京湾要塞に次ぐ日本で2番目の要塞工事でした。

 日清戦争(明治27~28年)後には、対馬市美津島町(みつしままち)の竹敷(たけしき)に海軍要港部が設置され、対馬が国防の重要拠点となった明治30年代(日露戦争:明治37~38年)を中心に、対馬には明治~昭和初期の31もの砲台が建設されることになりました。

 日露戦争から100年以上が過ぎた現在、砲台の多くは草木に埋もれて静かに眠りにつき、「近代土木遺産」や「遺跡」に近いものになっています。

【折瀬鼻砲台】

 美津島町緒方(みつしままちおかた)には、明治期を代表する「姫神山砲台」があります。規模も大きく、今年度、樹木の伐採や道路の一部整備を行ったため、緒方の集落から片道40分ほど歩けば砲台跡を見学できます。今回は、その先にある折瀬鼻砲台まで行ってみました。

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 うっそうとした森のなかに、石造りの砲台跡が出現。

DSC08261(折瀬鼻高砲台)_small.jpg

 100年以上過ぎているのに、堅牢なつくりです。

DSC08279(明治の井戸)_small.jpg

 井戸も発見。

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 長年風雪に耐えてきた要塞ですが、防波堤の設置により潮の流れが変わり、崩壊が進んでいます。

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 折瀬の灯台から神秘の島・黒島を望む。

【竹敷水雷艇隊の基地】

 2月14日には、美津島町竹敷(たけしき)の海軍要港部跡を見学しました。

 明治時代、日本は「清」と「ロシア」という大国と交戦して勝利しますが、この竹敷が重要な役割を果たしました。

 話が長くなるので割愛(^^;)

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 水雷艇(50トンほどの小型魚雷艇、日清・日露戦争などで活躍)のドック跡です。

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 明治時代の堅牢な石積みが残り、近代土木遺産「A」ランクです。

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 700トンという巨大な貯水タンク。

 対馬の砲台のうち、

  • 豊砲台 (上対馬町豊) 昭和初期
  • 上見坂堡塁 (厳原町北里) 明治

などは、自家用車・レンタカーなどでそばまで行けます。

  • 城山砲台・城山付属砲台 (美津島町黒瀬) 明治
  • 姫神山砲台 (美津島町緒方) 明治

などは、徒歩(往復2~4時間程度)で行けます。

  • 芋崎砲台 (美津島町昼ヶ浦) 明治
  • 折瀬鼻砲台 (美津島町緒方) 明治

などは、歩いて行けますが悪路です。雑草の繁茂する春~秋はおすすめしません。

 対馬要塞については、過去の記事もご参照ください。

 そのほかの砲台は調査中ですので、またご報告します。

 お楽しみに<(_ _)>