松村安五郎の碑

講演会「幕末、対馬と日本の運命」の開催について

2021/07/13対馬の歴史

 こんにちは、幕末とか、ロシアとか、領土問題とか、好きですか?

 好きだ!というあなたに、耳よりな講演会のお知らせです! あ、局長Nです!

 ショートショートの名手として知られるSF作家・星新一さんは、実はかなり面白い歴史小説も書いているのですが、そのひとつ「はんぱもの維新」(「城の中の人」収録)の主人公「小栗 上野介 忠順」(おぐり こうずけのすけ ただまさ)に関する講演会が、対馬で開催されます!

 ちなみに、SF作家・豊田 有恒さんは、幕末の対馬で起こった「ポサドニック号事件」をテーマに作品を書いています。

 ポ号の艦長ビリレフから対馬藩主に献上された西洋人のヌード写真が、かつて対馬の郷土舘にあったそうで、物語はそこから始まります。

 前置きは置いといて(-_-)//

「建国記念日」歴史講座
「幕末、対馬と日本の運命」
~小栗上野介の日本改造~
小栗 上野介 忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)とは?

◇安政7年(1860・万延元年)、遣米使節として日米修好通商条約批准のため渡米し、世界一周で帰国。勘定奉行・外国奉行・海軍奉行・陸軍奉行等を歴任し、幕末日本の近代化に奔走。

◇作家・司馬遼太郎は、『明治という国家』のなかで、日本近代化に尽くした小栗上野介の業績をたたえ、「明治の父」と語っている。

◇「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」(大隈重信の言葉)

◇「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり 幕府が滅亡したるはこの 一言なり」(小栗上野介の言葉)…福地源一郎著「幕府衰亡論」

東善寺ホームページより

対馬との関係は?

 文久元年(1861年)、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を不法占拠し、大船越(おおふなこし)の関所を押し通ろうとして島民2名が犠牲になるという事件(1861年対馬事件、ボサドニック号事件)が発生しました。

 世界有数の海軍国家でありながら、冬は氷に閉ざされる軍港に悩まされていた帝政ロシアは、対馬の中央に広がる浅茅(あそう)湾を足がかりに、日本・東アジアの覇権を狙おうとしたのです。

 この危機に際し、幕府から対馬に派遣されたのが、外国奉行・小栗上野介忠順でした。小栗はこの難問にどう対応し、事件はどのような結末を迎えたのでしょうか?

開催日 : 2013年2月11日(月・祝) 建国記念日
開催時刻: 開場13:30 講演14:00~15:30
講  師: 曹洞宗・東善寺(群馬県高崎市倉渕町) 住職 村上 泰賢 氏
会  場: 対馬市交流センター3F大会議室 (長崎県対馬市厳原町今屋敷661-3) >>Googleマップ
参加費 : 無料(お誘いの上、ご参加ください)
共  催: 対馬の自然と文化を守る会 宮本常一の足跡を巡る会
後  援: 対馬新聞社、対馬歴史顕彰事業推進委員会
協  賛: 日本女性の会対馬支部
連絡先 : 小松 津代志 (090-5298-9354)

烏帽子岳から見た浅茅湾

 帝政ロシアが欲した天然の良港・浅茅湾(あそうわん)。

大船越

 ポサドニック号事件の舞台のひとつ、大船越の瀬戸。 >>Googleマップ

 江戸時代に開削された人工の運河で、かつて関所がありました。

忠勇・松村安五郎

 大船越でロシア兵の銃撃を受け、死亡した「忠勇・松村 安五郎」の碑。

義烈・吉野数之介・乃木希典

 おなじく、ロシアの捕虜となったことを恥じ、治療を拒んで死亡したとされる「義烈・吉野 数之介」の碑。

 「義烈」は、日露戦争の陸の英雄・乃木 希典(のぎ まれすけ)の揮毫によるもの。
 (2つの石碑は、大船越の岸辺に並んで建てられています)

 この事件によって、ヨーロッパ列強の軍艦・大砲の脅威と、浅茅湾の重要性を思い知った日本人は、明治になり、浅茅湾防衛のため「対馬要塞」の建造に取りかかるのです。

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