幕末、小栗上野介と対馬の運命について

2021/07/13

松村安五郎の碑

 こんにちは、子どもが寝静まった深夜をブログの更新にあてていましたが、寒さのあまり一緒に寝てしまうことが多くなった局長Nです(-_-;)

 さて、小栗 上野介 忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)をご存知でしょうか?
(知らねえよ!とか、 下の2つのどっちが名前なんだ! とか言われそうですが(-_-;))

 子どものころ、星新一さんの「はんぱもの維新」(「城の中の人」所収)を読んで、「あっ!対馬が出てる!」と思い、さらに司馬遼太郎氏が「明治の父」とまで称えたということで、ずっと気になっていた人なのですが、先日の講演会(2/11)でようやくその実像がつかめました。

 すごいぞっ! 小栗 上野介 忠順!(長っ!)

小栗上野介講演会

 ちなみに、講師は、小栗家とゆかりの深い群馬県「東善寺」の住職 村上 泰賢さん。

 講演会の概要と、対馬との関わりについては、先日の記事をご覧ください。

小栗上野介関係

 村上さんに、「はんぱもの維新」をプレゼントしたところ、著書をいただきました。

 ありがとうございます!

 さて、小栗上野介がどういう人物で、何をしたのかと言いますと・・・

・幕末、日米修好通商条約批准のため、遣米使節の三使のうちの一人(目付・監察)としてアメリカに派遣される。
その際、日本→アメリカ(太平洋)、アメリカ→日本(大西洋→太平洋)を航海し、日本人初の世界一周を達成
(勝海舟と福沢諭吉は、遣米使節の護衛を名目とする咸臨丸に乗船し、日本~アメリカ間を往復)

・帰国後、当時寒村であった「横須賀村」に「製鉄所」(日本初の蒸気機関を動力とする本格的な総合工場)を建設
→やがて造船所、軍港として一大都市に成長。
 日本の産業革命は、横須賀、そして小栗から始まったといっても過言ではないのです。

・幕府の軍隊の近代化(フランス式)。

日本初の株式会社組織「兵庫商社」の設立。(坂本竜馬の「海援隊」より先)

・そのほか、鉄鉱山の開発や、「築地ホテル」(日本初のホテル会社)建設など、訪米で得た知見と経験をもとに、先進的な取り組みを次々に実施。

【小栗上野介の功績をたたえる言葉】

「明治の父」 (司馬 遼太郎)

「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」(大隈 重信)

「日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」(東郷 平八郎)

小栗とヴェルニー
芋崎灯台

 幕末、ロシア軍艦が対馬の芋崎を一時占拠した「ポサドニック号事件」において、小栗は外国奉行として交渉にあたり、2週間で引き上げています。

 ロシアに対して何も対処できなかった、と言われがちですが、小栗の構想としては、

  • 対馬藩を九州本土などに移封して、対馬を幕府の直轄領とする。
  • 交渉は正式の外交形式で行い、国際世論に訴える。
芋崎

 さらに

  • 対馬を開港し、どの国でも利用できる状態にすることで諸外国同士を牽制させ、一国による占領を防ぐ。
  • イギリスの力を借りる方法は、「前門の虎を追い払うのに、後門の狼を使うようなもので、危険」と考えていた。
    (結局、幕府はこの方法を採用。実際にイギリス公使は、ロシアが譲歩しない場合は武力で対馬を占領することを本国に提案していました)

 小栗上野介の最期は、

 旧幕府軍と、薩長を中心とする西軍が激突した戊辰(ぼしん)戦争がはじまると、幕府方として薩長への徹底抗戦を主張するも、恭順に傾いた徳川慶喜により罷免。

→土着願いを出し、小栗家の領地で静かに暮らそうとするが、西軍に捕らえられ、刑死。享年42歳。

北白川宮能久親王

 ちなみに、戊辰戦争において東北諸藩の盟主となった(後の)「北白川宮能久親王」は、明治26年、陸軍中将・第6師団長として対馬を視察し、城山山頂に金竹をお手植えされています。

 歴史は、勝者・生き残り組によって書かれる訳ですが、闇に葬られた敗者側にも優れた人材がいて、それぞれの人生があったのです。

 幕末の対馬、面白くなってきましたね!

 ガイドの会のみなさんと情報を共有して、対馬をより楽しくご案内いたします!

 NHK大河ドラマ「八重の桜」で戊辰戦争について学び、涙して、ついでに対馬に来てください!(殴)

 来たれ、幕末・歴史愛好者!

 つづき!

芋崎砲台

 欧米列強・清国との外交的・軍事的緊張にさらされた「国境の島・対馬」は、明治時代から昭和にかけて島全体が要塞化されていきます。

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姫神山砲台

 明治期の対馬の砲台を代表する「姫神山(ひめがみやま)砲台」

 来たれ、砲台マニア!(殴)