清水山城

朝鮮出兵の山城 清水山城

2021/04/07

【目次】

朝鮮出兵の山城 清水山城について

 清水山城(しみずやまじょう)は、朝鮮出兵(文禄慶長の役)に際し、豊臣秀吉の御座所として1591(天正19)年に築かれました。清水山城は、出兵の一大拠点であった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から壱岐・勝本城、朝鮮半島・釜山につながる重要な軍事的中継点でした。
 標高210mの清水山の尾根沿いに、東西約500mにわたって一ノ丸(本丸)・二ノ丸・三ノ丸の三段の曲輪(くるわ。石垣などで区画された平坦面)が並び、斜面を這う石垣により結ばれています。各曲輪から厳原(いづはら)の町並みや厳原港を一望できる総石垣の山城です。
 築城者は明確な記録がなく、軍監・毛利高政と推測されてきましたが、対馬領主(のちの対馬藩主)宗 義智(そう よしとし)に、肥後人吉の相良氏、筑後三池の高橋氏、筑後福島の筑紫氏の三大名が協力したと考えられています。
 天正期の山城の遺構を良好に残しており、昭和59年、国史跡に指定されました。
 厳原港から徒歩でアクセスでき、説明板も整備されています。観光情報館ふれあい処つしまから三ノ丸までは片道徒歩15分、一ノ丸まではさらに25分です。周辺に宿泊施設や飲食店、スーパーなどが多く、訪問には便利な立地です。

基本情報

名称

 清水山城(しみずやまじょう)

所在地

 長崎県対馬市厳原町西里(小字名 清水山下)>>清水山城(Googleマップ)

築城年

 1591(天正19)年

築城者

 宗 義智(宗家第19代、のちに対馬藩初代藩主)に、肥後人吉城主・相良長毎、筑後三池城主・高橋直次、筑後福島城主・筑紫広門が合力

史跡指定

 国指定史跡(1984年・昭和59年)

コース所要時間

観光情報館ふれあい処つしま((一社)対馬観光物産協会)(標高6m)
↓ 徒歩10分(距離400m)
清水山(有明山)登山口
↓ 徒歩5分(距離200m)
清水山城・三ノ丸
↓ 徒歩15分(距離350m)
清水山城・二ノ丸
↓ 徒歩10分(距離150m)
清水山城・一の丸(本丸)、清水山山頂(標高210m)
↓ 徒歩35分
観光情報館ふれあい処つしま((一社)対馬観光物産協会)

※上記所要時間は、休憩・見学をのぞく移動時間です。見学時間を適宜追加してください。

※(一社)対馬観光物産協会は、長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1 観光情報館ふれあい処つしま にあり、厳原港から車で3分、対馬空港からは車で20分です。

清水山城パンフレット

>>「清水山城~国境の島・対馬の時代の転換点~」パンフレット(PDF形式2.5MBダウンロード)

コース紹介

観光情報館ふれあい処つしま((一社)対馬観光物産協会)

 観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
【所在地】 〒817-0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
【電話】 0920-52-1566
【アクセス】 厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分。

登山口まで1

 清水山と有明山の登山口は共通です。ふれあい処つしますぐ近くの旧金石城の石垣横の坂道を登ります。
 左の坂は新博物館の建設工事により当面の間通行止めのため、右の坂を登ってください。車は近隣の対馬市交流センターや八幡宮神社などの有料駐車場をご利用ください。
 電柱の中央あたりに、清水山の樹木が一部伐採されて、三ノ丸が見えています。

登山口まで2

 長崎県立対馬歴史民俗資料館横の坂道を登ります。同資料館は、新博物館の建設工事にともない、平成27年4月より休館中です。

登山口まで3

 有明山と清水山の登山口は同じなので、「清水山城跡」へ誘導する緑色の小さな案内板に従い、右の坂道を登ります。左に下りていくと、旧金石城・万松院です。

登山口まで4

 清水山城跡の案内板に従い、右へ。

登山口まで5

 やや大きめの案内板に従い、住宅横の細い階段を登ります。

(1)有明山・清水山の登山口

 登山口は標高55m、清水山山頂は210m、ここから清水山城一ノ丸(山頂)までは片道700mの道のりです。

清水山城の説明板

 登山口に向かって左数メートルに、清水山城の説明板(対馬市教育委員会)が設置されています。

清水山城跡の解説(案内板より転載)

史跡 清水山城跡
国指定 昭和59年12月6日

 清水山上跡は、有明山(ありあけやま。558.2m)から延びた東の支脈先端にあたる清水山の尾根上に立地する、16世紀末の文禄・慶長の役に際して築かれた城である。
 天正期(てんしょうき)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朝鮮半島の釜山に兵を送るために、本営とした肥前名護屋城(なごやじょう)から海を渡った後の中継地として、壱岐の勝本城(かつもとじょう)とともに築いたと考えられる。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で、これに関し、秀吉は壱岐と対馬に「屋敷と宿舎、食糧用貯蔵庫」の建築を命じたと記している。しかし、その構造を見る限り、いわゆる御座所の機能は清水山城ではなく、金石城(かねいしじょう)に担わされていた可能性がある。秀吉の築城指令を記す史料は確認されていないが、例えば文化6(1809)年に編纂された『津島紀事』では、秀吉の命により毛利高政(もうりたかまさ)が築城したと書かれている。なお、築城者については、近代に出された、対馬領主の宗義智(そうよしとし)が主力になり、相良長毎(さがらなおつね)、高橋直次(たかはしなおつぐ)、筑紫廣門(つくしひろかど)らが加勢したとする説が有力である。
 城は一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と呼ばれる三つの曲輪(くるわ)からなり、延長は約500mである。標高208mの山頂部から南東の標高95mまでの高低差のある地形に位置する。各曲輪は尾根筋の平坦部に石垣を築いて造られており、尾根沿いの石塁でつながっている。
 尾根は岩盤が露出した狭隘(きょうあい)な地形のため、曲輪をつなぐ石塁も10m程の狭い幅で囲われた回廊(かいろう)状になっている。
 朝鮮半島に築かれた倭城(わじょう)には、退路(たいろ)の確保などを目的として設けられた港湾から城までを囲う竪石垣(たていしがき)と呼ばれる構造があるが、清水山城の石塁も曲輪をつなぎ、囲うことで、城内部の防御機能(ぼうぎょきのう)を意識したのであろう。

対馬市教育委員会

有明山遊歩道ルートと清水山ルートの分岐点

 登山口のすぐ上に、有明山と清水山(清水山城跡)の分岐点があります。左に進めば有明山、右は清水山ですが、数か所で合流し、また最終地点でも接続します。

三ノ丸の城壁

 登山口から200mほど歩くと、最初に三ノ丸の石垣が見えてきます。

(2)三ノ丸からの眺望

 三ノ丸からは厳原市街地・厳原港が一望できます。気象条件がよければ壱岐や沖ノ島が見えることもあり、この地に城を築いた意図がよく理解できます。

巨石群

 石垣で囲まれた曲輪のなかに、巨大な自然石が露出しています。

三ノ丸の解説(案内板より転載)

 清水山城の東端に位置する。標高95~105mの尾根の両肩部に石垣を築き、尾根に沿って細長い形状の曲輪(くるわ)を構成する。東西約80m、南北30mである。
 曲輪の石垣は直線で構成され局面は見られないが、長辺が10~20m間隔で穏やかに折れて繋がっているため、一見すると長楕円形を呈する。
 北辺はやや不明瞭だが南辺は比較的良好に遺存する。隅角部(すみかどぶ)は算木積みの様相を呈し、築石部(つきいしぶ)は扁平な割石を多く用いて、一部だけに横の目地が走る布積みと大小の石を多方向に積んだ乱積みと呼ばれる積み方で構築され、他の石材よりも数倍大きな石を随所に配置する鏡積み様の技法も見られる。
 東部南側に虎口(こぐち)が開き、石段が残る。曲輪の累線上には六箇所の横矢枡形(よこやますがた)がある。三ノ丸の南端から下には、尾根の稜線沿いに等高線に直行して竪堀(たてぼり)がある。

(3)成婚記念躑躅(つつじ)植栽碑

 昭和6年、宗家第36代・宗 武志(そう たけゆき)伯爵と、李王家第26代高宗の娘・徳恵姫の結婚を記念して清水山にツツジが植栽され、巨大な記念碑が設置されました。

石垣

 清水山城は総石垣の山城で、ところどころ巨大な自然石や岩盤をそのまま利用しています。

虎口(こぐち)

 城壁の出入口を虎口といい、防御力を高めるため直進できなかったり、内部にも石垣を積んで三方から一斉攻撃できる構造(枡形虎口)になっているなど、防御のためのさまざまな工夫が凝らされています。

曲輪を結ぶ石垣

 倭城(朝鮮出兵時に日本の武将が朝鮮半島に築いた城)の登り石垣のように、曲輪を結ぶ通路の両側にも石垣が積まれています。

(4)遊歩道との合流点

 清水山城の西側には歩きやすい遊歩道が整備されています。

二ノ丸手前

 二ノ丸の手前は、見るものに迫ってくるような急傾斜です。

二ノ丸の虎口

 斜面を這いあがると、二ノ丸の虎口が見えてきます。

石積みの技法

 清水山城では、17世紀初めに広まった算木積み(さんぎづみ。城壁の角の部分に、直方体の石材の長辺・短辺を交互に組み合わせて強度を上げた石積みの技法)や、石材の広い面を立てて表に見せる鏡積みなど、さまざまな技法が見られます。

(5)二ノ丸からの眺望

 二ノ丸からの厳原港・市街地を一望できます。深い緑の間を、尾根に沿って三ノ丸まで石垣が延びています。

ニノ丸の解説(案内板より転載)

 清水山城跡の中央、一ノ丸と三ノ丸の間に位置する。
 標高160m前後の平坦部に石垣を築き、不整な長方形の曲輪を構成する。各所に設けられた虎口、階段などの構造が良好に遺存する。
 東西約50m、南北約30mと三ノ丸よりやや狭い。石垣の遺存状態は良好で、構造がよく確認できる。曲面を持たず、鋭角と直角に近い鈍角で構成されるため、三ノ丸に比して直線的な様相である。
 隅角部には算木積みの要素が窺え、築石部は扁平な割石を多く用いて、一部だけに横の目地が通る布積みと大小の石を多方向に積んだ乱積みと呼ばれる積み方で構築した中に、他の石材よりも数倍大きな石を随所に配置する鏡積み様の技法が見られる。
 直線的な曲輪の累線や枡形虎口は、織豊(しょくほう)系城郭の様相をよく表している。

二ノ丸の石積1

 清水山城は文禄慶長の役に際して築かれましたが、秀吉の死による撤兵後は特に利用されず、当時の遺構が改変を受けないまま残存しています。

二ノ丸の石積2

 堂々たる石垣です。

枡形虎口(ますがたこぐち)

 入口の内側に石垣で囲まれた方形の空間を作り、三方から攻撃して敵を殲滅する枡形虎口が設置されています。

二ノ丸の石積3

一ノ丸への道

 露出した岩盤の上に、山頂まで石積みが延びています。

(6)一ノ丸の虎口1

 扁平な石を積んだ円形の曲輪が見えてきました。

一ノ丸の虎口2

 曲輪は2重になっており、虎口も2つありますが、角度をずらして配置してあり、直進できない構造です。

一ノ丸の虎口3

 虎口を別角度から。

一ノ丸の虎口4

 2重の曲輪の内側の虎口は、また違う雰囲気の石積みです。

一ノ丸の虎口5

 別角度から。

一ノ丸の石積み

 別角度から。

一ノ丸の解説(案内板より転載)

 清水山城の頂上部を石垣で楕円形に囲い造られた曲輪。各曲輪のなかで最も高い位置に築かれている。標高207mの山頂を中心に、東西約70m、南北約40mの範囲に石垣が巡る。平入り虎口が南東側と北西側の二箇所に設けられている。南東側の虎口は外と内に二列の石垣に一箇所ずつ二門が開くが、食い違いに配置され直線状には並ばない。
 虎口から二ノ丸までは、通称「水の手」と呼ばれる鞍部(あんぶ)に虎口を設けているが、尾根筋を挟んで石塁が延び、曲輪間を繋いでいる。一方、北西側にも平入り虎口が開いており、二の丸に続く南東側とは異なり、幅の広い石段が設けられている。この二箇所の平入り虎口周辺は、扁平で小さめの石を積み上げており、他の曲輪を形作る石垣とは明らかに様相が異なる。角がない曲輪で構成されているのも二ノ丸、三ノ丸と異なる特徴である。一方で、南東側に開く虎口の内側に築かれた石垣は、鏡石を使用した技法で積まれており、曲輪間の石塁や二ノ丸、三ノ丸の石積みと特徴を同じくする。曲輪の累線上には横矢枡形が一箇所設けられている。絵図には山頂部を囲う方形の基壇が描かれているが、現状での遺構は定かではない。

(7)北西部の虎口1

 有明山方向に続く虎口には、石材の大きな面を表に出す鏡積みの技法が用いられています。

北西部の虎口2

 大きな石段が設置されています。

北西部の虎口3

 別角度から。

(8)一ノ丸からの眺望

 2度に渡った朝鮮出兵は豊臣秀吉の病死によって幕を下ろしました。石田三成や加藤清正ら豊臣家臣団は分裂・弱体化し、台頭した徳川家康が関ケ原の合戦・大阪の陣を制し、新たな時代を築いていきます。
 清水山城は、戦国時代の終焉と、朝鮮通信使が往来する太平の世の画期点でもあります。

清水山城の謎

 清水山城には、いくつもの謎があります。
 1.豊臣秀吉の御座所として築かれたのに、それだけの空間がない。(ふもとの金石城を併用?)
 2.各曲輪のデザインがバラバラ(協力した大名が別々に築造?)
 3.攻めるにしろ守るにしろ仮想敵がいない(戦場は朝鮮半島)などなど。
 清水山城の目的は、壱岐からの船の監視や、八幡宮神社の神山を伐採して総石垣の城を築き、強大な権力を誇示する「見せる城」だったのかも知れません。

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