金田城

対馬、万葉の旅

2021/07/13対馬の歴史

 万葉集(まんようしゅう)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた、日本最古の和歌集です。歌の読み手は、天皇・貴族から防人まで多岐に渡り、4500首以上の歌が集められています。

 対馬が深く関係するのは、第15巻の「遣新羅使」の歌、第16巻の「志賀荒雄」の歌、第20巻の「防人」の歌です。いずれも歴史的に関連があるので、簡単に背景の説明を。

  • 660 唐・新羅(朝鮮三国のひとつ)の連合軍により、百済(朝鮮三国のひとつ)が滅亡
  • 663 白村江の戦いで、倭国(日本)の百済救援軍が唐・新羅に大敗 → 日本本土が侵略される恐れが発生
  • 664 筑紫・壱岐・対馬に防人(国境守備兵)・烽火(のろし台)を設置
  • 667 対馬に金田城を築く → 防人が常駐し、国境の海をにらむ
  • 668年 統一新羅の建国 → 新羅は唐の圧力を一身に受けることになり、日本に使節を派遣し、共同で唐に対抗する方針をとる。日羅関係は良好。
  • 698年 朝鮮半島北部に渤海が建国される。渤海は唐・新羅に対抗するため日本に接触。国家意識を高めた新羅と、新羅を属国とみなす日本の間で軋轢が強まる。
  • 724年~729年(神亀年間) 志賀島の海人・志賀荒雄が、対馬の防人に食糧を運ぶ途中に遭難する事件が起こる。
  • 735年 新羅が「王城国」と国号を変えたことを伝える新羅からの使者がやってくるが、これを不快として大宰府で足止め、追い返す。
  • 736年 阿倍継麻呂が遣新羅使大使に任命される。新羅との関係悪化、前年の新羅使への対応などを考えると、はじめから任務達成の困難が予想された。実際、阿倍継麻呂は外交使節としての礼遇を受けられず、帰路、対馬で客死。疫病により帰京が遅れた副使・大伴三中が「新羅の無礼」を奏上した。
    (大使の死因は疫病だと考えられているが、使命を果たせなかったため自ら命を絶ったとも推測されている)

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 対馬市美津島町黒瀬の金田城(かなたのき)には、防人が築いた城壁が残されており、防人住居跡も発見されています。

 1300年前、東国からやってきた防人たちがここで生活していました。

 もともと、今の交流センターの敷地にあったもので、司馬遼太郎の「街道をゆく 壱岐・対馬の道」にも登場します。

西漕手.jpg

 対馬市美津島町小船越(こふなこし)の西漕手(にしのこいで)は浅茅湾の最深部にある古代の港です。

 小船は陸揚げして対岸(対馬海峡)に運び、大型の船は人と荷物を対岸に用意された別の船に移して朝鮮半島への航海を行いました。

 遣新羅使もここを通ったと推定されています。

 防人、志賀荒雄、遣新羅使のいずれも命をかけて玄界灘を渡り、多くは悲劇的な生涯を送りましたが、万葉集に歌を残したことで、1300年の時を経てもなお、現代にその息吹を伝えています。

防人の歌

唐衣(からころも) 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして

【現代語訳】 唐衣の 裾に取りすがり 泣く子供を 残してきたことだ 母親もなくて

※旅立とうとする父親の旅装の裾に、子供たちが取りすがり、泣いている。もともと母親のいない家庭なのに、父親までが防人として出征しなければならない。

遣新羅使の歌

あしひきの 山下光るもみち葉の 散りのまがひは 今日にもあるかも

【現代語訳】 (あしひきの)山陰も輝くばかりの もみじ葉の 散りかう盛りは 今日なのだなあ

※大使の歌。本来は夏に出発し、秋には無事故郷に戻るはずだった。行程が大幅に遅れ、海が荒れる冬が迫っており、故郷で見るはずだったもみじを対馬で見ている。盛りを迎えた浅茅湾の黄葉の美しさを描いているが、もみじの落葉=死の予兆を感じさせる。