豊砲台

対馬砲台群を歩く 「棹崎砲台・豊砲台・臼崎砲台編」

2021/07/13対馬砲台群

 2011年12月5日(月)、前日にNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第3部の放映が始まり、焦った要塞部員2名は、棹崎(さおざき)砲台・豊(とよ)砲台・臼崎(うすざき)砲台、おまけの万歳峠の調査を行いました。

イノシシ

 90分かけて北上した上県町佐護の棹崎公園で、いきなりオッコトヌシ様(もののけ姫)に遭遇(-_-;)

 今年はやたらとイノシシを見かけます。

棹崎公園

 昭和期に建設された棹崎砲台は、棹崎公園として整備され、1997年には対馬野生生物保護センターが開館しました。

 現在、センターでは、ツシマヤマネコが一般公開されています。

砲座跡・・・

 砲座跡・・・。公園なので・・・。

対馬北部の眺望

 前々日には、対馬中部の城山から韓国が見えましたが、この日は快晴なのに対馬北部の棹崎から韓国が見えませんでした。

 晴れていれば見える、という訳でもないようです。

日本最北西端の碑

 日本最北西端の碑。

砲座跡・・・

 砲座跡・・・。いや、公園なので・・・。

観測所

 公園には似つかわしくないコンクリートの観測所(殴)

観測所内部

 内部はこんな感じ。

棹崎の展望

 公園として整備されていますが、砲台としての面影はあまり感じられません。

 敷地内の対馬野生生物保護センターでは、マジックミラー越しにツシマヤマネコを見学することができます<(_ _)>

 棹崎砲台 四五式15cmカノン4門、起工:昭和11年7月、竣工:昭和13年3月。

豊砲台入口

 そして砲台部員2名は、上対馬町豊(とよ)にある豊砲台へ。

 大正時代のワシントン海軍軍縮条約により不要となった巡洋戦艦「赤城」の45口径砲塔40cmカノン2門を移設する形で昭和9年に完成したもので、当時は世界最大の巨砲でした。

通路

 入口のボタンを押すと30分間照明が点灯します。前回の竜ノ崎砲台とは大違いで安心。

動力庫

 動力室の様子。

水圧蓄力機(上部)

 豊砲台の巨大な砲身(全長18.5m、100トン以上)は水圧で稼動していたようです。水圧蓄力機の上部。

水圧蓄力機(下部)

 水圧蓄力機の下部。

砲塔(上部)

 砲塔上部。ぽっかりと空が切り取られていました。

砲塔(下部)

 砲塔部と砲台担当S。

 「でけーなー」

通路

 通路。近代要塞という言葉がぴったりです。

出口付近

 出口付近は一部が破壊されています。

 戦後にGHQの解体班が武装解除(爆破)を試みましたが、あまりに堅牢で、途中で諦めたとか。

砲塔を見下ろす

 外に出て、砲台に向かって右側の斜面を登っていくと、砲塔部の上に出ます。

 豊砲台は結局、実戦では一度も発射することがなく、「撃たずの砲台」と揶揄(やゆ)されることもありますが、第2次大戦時に日本海側の都市に艦砲射撃による被害がなかったのは、対馬要塞の強力な火砲による威圧の効果が大きかったためです。

 豊砲台 45口径40cmカノン×2、起工:昭和4年5月、竣工:昭和9年3月。

万歳峠入口

 えー、以前から気になっていた「万歳峠登リ口」の石碑。

 日本海海戦では、日本の海軍連合艦隊と、ロシアのバルチック艦隊が対馬沖で激戦を繰り広げますが、対馬北部の住民は、それぞれ山に登って戦争の様子を観戦していました。

 日本が勝ち、島民が「万歳!」をした場所だとか。

 ここから細い山道を登ってみたのですが、えらい目に逢いました(-_-;)

対馬要塞地帯標

 対馬要塞地帯標(大正13年7月3日、第2号)を発見!

植林の森

 万歳峠に出るはずが、植林地の作業道が造成され、途中で道が消えていました。

 「ここが万歳峠、ってことにしとこうか・・・」

作業道

 1キロ以上歩いたのに目的地に到達できず、同じ山道を帰るのもつまらないので、作業道を降りることにしたところ・・・。

万歳峠の石碑

 偶然、万歳峠の石碑を発見(-_-;)

万歳峠・新入口

 立派な作業道を降ると、登リ口石碑の数十メートル下に出ました。

 「こっちから登ってれば、あんなに山道歩かんですんだんじゃい!」

 「まあ、おかげで地帯標を発見したじゃないの」

日本海海戦レリーフ

 上対馬町殿崎の巨大レリーフです。日本海海戦100周年の2005年に設置されました。

 日本海海戦で負傷して捕虜となったバルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーを見舞う連合艦隊司令長官・東郷平八郎の図が描かれています。

生きる力の井戸

 上対馬町殿崎(とのさき)の「生きる力の泉」です。

 壊滅したバルチック艦隊の敗残兵が対馬北部に漂着し、島民は水や食料、宿を与えて手厚く看護しました。その多くは捕虜となり、無事ロシアに帰ることができました。

 1861年(文久元年)、ロシア軍艦による対馬侵略から始まった対馬とロシアの因縁は、44年後の1905年(明治38年)、傷ついたロシア兵を島民が助けるという形で幕を閉じたのです。

臼崎砲台

 上対馬町五根緒(ごねお)の臼崎砲台・・・。

 昭和期の三八式野砲らしいですが、規模も小さく、もはや何がなんだかわからない状態でした。

夜のとばり

 北部から対馬市役所までは車で2時間。すっかり日が暮れてしまいました。

 「明日、浅茅湾の2砲台を調査して、木曜に豊玉の3砲台を調査すれば、対馬砲台群、終了・・・」

 「もう勘弁してください」

Googleマップ
>>対馬砲台群・砲台マップ「棹崎砲台・豊砲台・臼崎砲台」