対馬の烽火(とぶひ/のろし)の山々について

2024/11/07トレッキング,対馬の歴史

 こんにちは、あいかわらず隙間時間に対馬の山々を歩いているエヌです。

 白嶽が日本百低山(山と溪谷2024年11月号)に認定されましたよ!(しつこい)

>> 山と溪谷 2024年11月号

 さて、今回ご紹介するのは、対馬の烽火(とぶひ/のろし)の山々です。

烽火について

 7世紀、白村江の戦いに敗れた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、九州~瀬戸内海~畿内に至る古代山城群を築き(対馬の金田城はその最前線)、国境守備兵・防人(さきもり)を対馬・壱岐・筑紫に配置しました。

 初期の防人は主に東国から徴発され、彼らの想いは万葉集に「防人の歌」として残されていますが、朝鮮半島・大陸で異変があれば、まっさきに大宰府・朝廷に連絡する任務があり、烽火(昼は煙、夜は火をあげる)を使ったようです。

 「軍防令」(ぐんぼうりょう)には防人の就業規則(?)が含まれており、

「休みは10日に1日」

「次の烽火が30分反応しなければ走って知らせに行け」(烽火の意味とは・・・)

などの定めがあり、かなり面白いのですが、烽火は40里(約21㎞)間隔で設置せよ、というものがあり、20kmも離れると見えるのか?と疑問に思っていました。

で!

対馬で烽火が配置されていた(とされる)山の位置関係を、現地に足を運んで、調べてみました。

烽火が設置された山々

 それぞれの山の標高、次の烽火の山までの距離と視認性などは以下の通りです。
(山名の前の◎は山頂からの展望が良好であることを、×は樹木の繁茂などで視界が悪い状態を意味します)

◎ 千俵蒔山(標高287.3m 以下「標高」は略)

↓8.4km

△ 御岳(雄岳)(479m)

↓10.5km

× 黒蝶山(268m)

↓10.7km ◎悪代山(標高228.7m)が障害となり、見えない
(黒蝶山→悪代山は6.8km、悪代山→天神山は3.8km 悪代山に中継所があった?)

× 天神山(191.1m)

↓9.5km

△ 浅茅山(187.6m)

↓12.1km
(防人の拠点・城山(金田城)を素通りすることになるので、城山も経由すると、浅茅山→城山8.3km、城山→白嶽4.6km)

◎ 白嶽(518m)

↓9.6㎞

△ 大鳥毛山(555m)

↓4.3km

〇 龍良山(558.4m)

 実際には、各烽火の間隔は10㎞程度のようですね。

 また、江戸時代の遠見(異国船などの監視所)もふくめ、島内には20か所ほど烽火があったようですが、遺構は見つかっていないということなので、土あるいは木製(?)など朽ちやすい構造物だったのかも知れません。

 さて、各山の簡単な紹介です。(標高などは既出しているので省きます)

(1)千俵蒔山(せんびょうまきやま)

 気象条件に恵まれれば朝鮮半島が見え、防人の軍団が置かれていたと考えられています。
 山頂は広い草原上になっており、現在は風車が建設されています。

中央左に、御岳・平岳が確認できる
朝鮮半島の影がくっきりと見える日も
山頂に散在する石。人工物か、自然物か・・・

(2)御岳(みたけ)

 御岳(雄岳と雌岳)、尾根が平坦な平岳があり、三岳とも。
 モミとアカガシの針広混生の原始林で、ツシマヤマネコの生息地でもあり、かつては巨大なキツツキの仲間キタタキが生息していました。
 山岳信仰の聖地であり、山頂には蔵王権現ほか石像が残されています。
 その山容と標高から、北部ではかなり目立ちます。

山頂にはいくつもの石像・巨石がある
目保呂ダムは見渡せるが、他の方向は樹木が繁茂している

(3)黒蝶山(くろちょうやま)

 国土地理院の地図にも名前が載っていない山で、峰町三根と上県町女連(うなつら)や同町久原(くばら)を結ぶ古道上にあり、急傾斜の黒蝶坂の北に位置します。

山頂は狭く、尖っているが、展望はほぼない
「久原(くばら)小本校生徒一同」の道標。久原・女連(うなつら)などの方向を示していたらしい

(4)天神山(てんじんやま)

 和多都美御子神社(天神宮)の北北西に位置し、14世紀ころに大宰府天満宮を勧請したとされますが、それ以前から山岳信仰の対象だったようです。

冬であれば比較的視界が開けるかも

(5)浅茅山(あさじやま)

 大山岳(おやまだけ)とも呼ばれ、高い山の少ない浅茅湾(あそうわん)周辺において、よい標山(しめやま。航海などの目印)でした。
 明治期には大山砲台が置かれ、その後は地元の子どもたちの遠足地でしたが、樹木が繁茂し、訪れる人も少なくなりました。

浅茅山(別名・大山岳)の登山道入口
次の烽火である白嶽・城山(金田城)の展望

(6)白嶽(しらたけ)

 対馬を代表する名山で、日本百低山(山と溪谷2024年11月号)に選定されました(しつこい)。
 山岳信仰の聖地、霊峰であり、大陸系植物と日本系植物が共生する独自の植生により、洲藻白嶽原始林として国の天然記念物に指定されています。
 山頂は特徴的な双耳峰(雄岳・雌岳がある)で、標山として、また烽火の山としても最適だと思われますが、山頂の狭さと、走って知らせる場合の険しさが問題かと。

左上に御岳・平岳、右上に浅茅山が見える
洲藻集落から見た白嶽

(7)大鳥毛山(おおとりげやま)

 対馬最高峰・矢立山の山系の一峰です。白い岩盤・巨石などが散在し、古名は荒野隈(あらのくま)。現在、周辺には灌木が茂り、歩きにくく、視界もかなり遮られています。

白い石と灌木の荒涼とした風景
次の烽火がある龍良山を望む

(8)龍良山(たてらやま)

 日本からはほぼ姿を消した貴重な照葉樹原始林として、国の天然記念物に指定されています。
 特に、低域のスダジイの巨木の森は訪れる者を圧倒します。
 山頂は岩盤が露出し、対馬最高峰・矢立山や大鳥毛山方面の眺望は良好ですが、壱岐方向は樹木が茂り、見通しが悪くなっています。

森の精霊のようなスダジイの巨木
対馬最高峰の矢立山と、前の烽火・大鳥毛山が見える
壱岐方向は樹木が繁茂し、視界が悪い

 そして、龍良山から壱岐へ!

 ・・・は、54㎞ほどあるので、船も併用していたんでしょうね。

厳原町東側の漁火(いさりび)公園から壱岐(いき。島)を望む
平坦な壱岐の島影の上に、九州本土の山(雷山?)が見えている

(おまけ1)悪代山

 豊玉町誌・峰町誌には「悪四郎山」と表記されており、「あくしろ(う)やま」が本来の名前のようです。
 悪=強いという意味があり、人物、修験者(しゅげんじゃ。山岳修行者)などに由来するのかもしれません。

 悪代山は、黒蝶山→天神山の見通しの障害となるので、烽火の中継地だったのではないか?と思い登ってみました。
(豊玉町田の国道沿いからアクセスできます)

 登山対象としてはマイナーであまり期待していませんでしたが、山頂南面が大伐採されて天神山・白嶽などを一望できるパノラマが広がり、北側も、木々の間から御岳・平岳を確認できました。

天神山や白嶽を一望
背後には御岳・平岳も見通せる

(おまけ2)金田城(かねだじょう/かなたのき)

明治期の軍道と7世紀の石塁が交差する東南角石塁

 浅茅湾南岸の岩の半島・城山(じょうやま)に築かれた古代山城で、延長2.2kmもの石塁(城壁)が張り巡らされ、対馬防衛の中枢だったと考えられています。

高さ6.7mの石塁が残る三ノ城戸(さんのきど)

 城山(金田城)は、上記の8つの山には含まれていませんが、江戸時代の「津島紀事」には、山頂は「火立隈」(ほたてぐま)と呼ばれ、烽火の跡があったという伝承が記されています。

山頂から朝鮮半島方向を望む

 気象条件がよければ朝鮮半島を望むことができ、また明治期には城山砲台として整備されるなど、国防の最前線としての歴史が刻まれ、また対馬らしい自然や景観も体感できます。

 かつては知る人ぞ知る国指定特別史跡でしたが、最近は、続日本100名城(日本城郭協会)、最強の城(NHK)、アンゴルモア元寇合戦記(漫画・アニメ)やゴーストオブツシマ(ゲーム)の聖地として、人気を集めています。

烽火の山の今、昔

 現在では多くの山々で、樹木の繁茂や植林により山頂からの展望が失われていますが、烽火が設置されていた時代には、島内の山々のみならず、時には遠く壱岐・九州本土・朝鮮半島まで見渡せていたのかもしれません。