
たかぎ七彦先生と萩原さちこさんの対馬訪問について
こんにちは、今年最初のイベント「スゴイチャケ!対馬の魅力をいろんな視点で語ってみるトークイベント」(1/11)が無事終了してほっとしているエヌです。
アンゴルモア元寇合戦記の作者・たかぎ七彦先生と、城郭ライター・対馬お城大使の萩原さちこさんに対馬にお越しいただき、お二方の対馬初来島時(2016年、2014年)のきっかけや印象、対馬の歴史のすごいところ、魅力などについて語っていただきました。
今回は、萩原さんをご案内した場所(お城・砲台を中心に)をちょこっと紹介します。
姫神山砲台(ひめがみやまほうだい)

対馬には、明治~昭和にかけて30ヶ所以上の砲台が築かれました。
姫神山砲台は、28センチ榴弾砲が2門×3基=6門設置された、対馬の明治30年代を代表する典型的かつ最大規模の砲台です。
砲座の左右に観測所があり、気象条件に恵まれれば、沖ノ島や壱岐が望めます。
万関橋(まんぜきばし)

明治海軍の拠点であった竹敷から東水道に出撃するために、明治30~31年にかけて、陸軍によって開削された人工の運河・久須保水道にかかる橋です。
江戸時代に開削された大船越運河もあり、現在の対馬本島は3つに分かれ、2つの橋でつながっていることになります。
お船江(おふなえ)

江戸時代(1663年)の築造と伝わる、対馬藩の造船ドックです。
4基の突堤と5つの船渠(せんきょ)があり、満潮時には突堤の途中まで冠水し、干潮時には干潟になるため、干満を利用して船艇の修理・手入れなどを行っていました。
芋崎砲台(いもざきほうだい)

対馬の砲台は、建造年代により、第1期(明治20年代・日清戦争前)、第2期(明治30年代・日露戦争前)・第3期(昭和初期・太平洋戦争)に分かれるのですが、芋崎砲台は第1期でありながら、第2期にも改造して利用されています。

なんと、たかぎ先生も「行ってみたい!」とのことで一緒に訪問しました。
実は芋崎は、対馬とロシアの因縁の始まりであるポサドニック号事件(文久元年・1861年)の舞台でもあり、海辺に降りると「文久元年 魯寇之跡」(ロシア軍艦泊留地跡)の石碑があります。

さらに、昭和16~17年には高射砲陣地が設置されていました。
芋崎には、幕末から太平洋戦争期までの戦跡が重層していることになります。

「大東亜戦守備之地」(豊島部隊)の石碑です。

側面には「昭和十七年秋」の文字が刻まれています。
豊島部隊は対馬・芋崎を離れ、長崎市の金毘羅山高射砲陣地の防衛にあたりますが、昭和20年夏、原爆により壊滅的な打撃を受けます。
金田城一周コース
2025/1/12(日)は、ガイド養成事業モニターツアーで金田城を一周しました。
金田城にはコースがいくつかあり、
(1)山頂往復(軍道)コース
明治期の軍道を歩き、砲台跡から山頂を目指します。
〇 道がわかりやすい定番コース。山頂からの景観が最高。
△ 石塁を見学できる場所が、東南角石塁・南西部石塁などに限られる(それでも十分ですが)
(2)石塁見学コース
2㎞以上もある石塁に沿って歩きます。
〇 石塁を存分に堪能できる。石垣ファン大満足。
△ 山頂の絶景は見られない。一部迷いやすいところがある。
(3)一周コース
軍道と石塁を組みあわせて全体を歩きます。
〇 石塁・山頂どちらも体験できる。
△ 5~6時間かかり、体力が必要。怪我や道迷いなどのリスクもある。

(3)は山歩き経験者向きのコースなので、通常は(1)か(2)を選択することになるのですが、ガイドが同行し、安全面を確保しつつ、歴史的背景などの説明を行うことで、ゲストの満足度の向上も図れます。

今回は、対馬市内外の参加者の方4名をモニターとして、ガイドの卵2名(のんちゃん、ともきゅう)が(3)のコースの実証ツアーを行い、萩原さんと我々スタッフがサポートしました。

高さ6.7mに達する三ノ城戸(さんのきど)。城戸=城門です。

7世紀の石塁(下半分)と、江戸時代18世紀末と思われる補修(上半分)が見られる一ノ城戸(いちのきど)。

金田城の鎮守・大吉戸神社(おおきどじんじゃ)には、対馬要塞司令による巨大な石碑が。

長大な上り坂・階段がある一周コースの様子。

山頂からは、朝鮮半島方向の水平線が眼前に広がります。
今回は、石塁ぞいを歩き、大吉戸神社で昼食をとり、海抜ゼロから山頂まで登り、山頂から眺望を楽しみ、軍道をゆっくり降りました。
萩原さん、ガイドの卵のおふたり、参加者の皆様、スタッフの皆さん、お疲れ様でした!
ありがとうございました。