
「対馬六観音まいり」について
こんにちは、先日、「対馬六観音」をめぐり、対馬の歴史・文化・信仰の面白さ(面積の広さも)を実感したエヌです。

対馬六観音まいり(参り)は、大正時代くらいまで、島の若者が成人になるための通過儀礼として行われていた風習ですが、島民でもなかなか馴染みがないと思うので、紹介します。
対馬六観音
現在、対馬島内の佐護(さご)・瀬田(せた)・三根(みね)・曽(そ)・佐須(さす)・豆酘(つつ)の6か所に観音堂があります。
長い歴史のなかで、観音堂が移転したり、火災で損傷した観音像もありますが、もとは対馬6郷(佐護郡、伊奈郡、三根郡、与良郡、佐須郡、豆酘郡)の政庁近くにあったようで、政治や信仰上、重要な場が選ばれていました。
ちなみに6つの観音像は、行基(ぎょうき)上人が、対馬の天道信仰の開祖である「天道法師」に伴われて来島し、成相寺(厳原町宮谷)で彫成した、と伝わります。
災害や疫病、飢饉や戦乱などの社会不安を鎮め、あらゆる衆生を救うとされる観音信仰に、天道法師や行基上人の伝説が習合し、対馬六観音が島に根付いていったようです。
対馬六観音まいり
旧正月を迎えると、成人に達した島の若者は、連れ立って六観音を巡拝する旅に出ました。
(男は19歳、女は17歳、正月2日や11日など、年齢や出発日は地域により多少違いがあったようです)
浅茅湾(あそうわん)の縦断は船を使いますが、基本的に徒歩なので、全島をめぐるのに1週間以上かかります。
(ルートを見ると、黒蝶坂とか佐須坂とか、もはや登山ですね・・・)
体力テストでもあり、協調性や行動力・決断力などの人間性も試され、文化や風習、地理を学んで知見を広め、また各地でお世話になり人脈を築くなど、育った集落しか知らない若者が、より広い世界に出ていくための重要な通過儀礼でした。
婚活も兼ねており(?)、この旅を契機に結ばれる若者も多かったようです。
対馬六観音
佐護(さご)観音

長崎県対馬市上県町佐護南里 >> Googleマップ

旧佐護中学校(天諸羽神社横)の建設に伴い、現在地に移転しました。ここにも古い遺跡があり、神聖な場所が選ばれているようです。
木製の聖観音と如意輪観音が安置され、木製の格子越しに拝観可能です。

周辺は対馬では珍しく田んぼが広がり、ツシマヤマネコや野鳥などの生息密度が高く、雄大な自然を体感できます。
瀬田(せた)観音

(以下、長崎県対馬市を省略)上県町瀬田1025 >> Googleマップ
円明寺の奥のちょっとわかりにくいところにありますが、元は国道沿いの国本神社にありました。
聖観音像は普段は拝観できませんが、1月3日のみ御開帳されます。
かつて、馬とばせ(対州馬によるレース)が行われおり、スタート(ゴール?)地点に「馬頭観音」が祭られていたそうです。(馬だけに?)
三根(みね)観音

峰町三根959 >> Googleマップ

観音堂は小牧宿祢(おひらすくね)神社境内にあり、かつては十一面観音が祭られていましたが、1839年(宗家文書。1842年説あり)に火災で焼失しました。
信仰心の篤かった観音住持は嘆き、火中に飛びこもうとしたところを寸前で村人に止められた、と伝わります。
拝観はできませんが、対馬では珍しい両部鳥居(六本脚で、広島の厳島神社が有名。神仏習合の神社に多いようです)や、明治20年代の狛犬や、珍しい蜂洞(伝統的な養蜂の巣箱)の神様が祭られ、すがすがしい雰囲気が漂っています。
曽(そ)の観音

豊玉町曽99-1 >> Googleマップ

観音堂は修林寺の隣にあります。
室町時代の初期、六観音でもっとも優雅・美麗とされる聖観音(中央仏師の作?)を、ガラス越しに拝観できます。
もともと朽木(くちき。現在の峰町吉田)にあり、朽木と曽の和尚さんが峠(とうげ)で博打(ばくち)をうち、1224年に質として曽にもたらされた、という伝承があります。
朽木と曽の間にある峠は、800年後の現在でも、双六坂(すごろくざか)として地図に記載されています。
(博打に負けて、歴史に名を残しましたね・・・)
佐須(さす)観音

厳原町樫根345 >> Googleマップ

佐須観音堂は、元寇に散った宗氏初代・宗 助国(そう すけくに)公の御胴塚がある法清寺の隣にあります。もともとは公の御首塚がある鶴野にあったようです。
木製の格子越しに、平安後期の作とされる美しい千手観音を拝観できるほか、享徳年間(1452~1455年)に佐須浦に流れ着いたと伝わる木造の平安仏が15体(もともとは22体)も安置されています。
平安時代に国内で製作されたとされる仏像が、なぜ15世紀に(大量に)対馬の海岸に流れ着いたのかは謎です。
佐須は樫根・小茂田・下原などの地域の総称で、元寇や、日本最古の銀山跡があるなど、多くの伝説に彩られた地域です。11月には、元寇の慰霊祭である小茂田浜(こもだはま)神社大祭が開催されます。
豆酘(つつ)観音

厳原町豆酘2424 >> Googleマップ
豆酘(つつ)は対馬南部の集落で、多久頭魂(たくづだま)神社の一画に、豆酘観音堂があります。
十一面観音が祭られていましたが、1957年の火災で焼失し、現在は別の仏像が安置されているようです。(拝観不可)
多久頭魂神社の敷地はかなり広く、対馬に6つある名神大社のひとつとされる高御魂神社(たかみむすびじんじゃ。元は豆酘中学校近くの海岸部にあったそうです)や、神功皇后関係の神社を一度に参拝できます。
豆酘は、赤米神事や亀卜(きぼく)が伝わるなど、個性的で独自の歴史文化が刻まれた地域です。
成相(なりあい)の観音

前述しましたが、六観音は行基上人が彫成したという伝説があり、端材でさらに一体の聖観音像を製作し、成相の谷に堂を築いて安置した、と伝わります。
1635年、対馬藩・幕府を揺るがした柳川一件(国書偽造事件)に際し、初代藩主・宗 義智の後妻・倉野 竹(法名・威徳院)は、連日、観音堂に祈りを捧げました。
三代将軍・家光の裁定により藩の存続が決定した後、倉野夫人は観音堂に鳥居と石橋を寄進し、その横に成相寺を建立しました。
江戸時代、桟原館に近いこのあたりは人の流れも多く、茶店で賑わう「茶屋町(ちゃやまち)」と呼ばれ、六観音まいりを終えた若者たちは、巡拝達成を成相の観音に報告したのち、茶店で買ったお菓子と旅の想い出をお土産に、それぞれの里に帰っていきました。
現在、「茶屋町」は厳原港周辺の飲食街の呼称となり、成相観音堂跡には、石の鳥居がひっそりと残されています。
対馬六観音まいりの今後
対馬の初春の風物詩として語られた六観音まいりですが、昭和初期に廃れてしまい、現在、六観音を(徒歩で)めぐる人はいません。
中学校・高校を卒業して、島のことを知らないまま旅立つ若者も多く、六観音は各地で個別に信仰されているものの、そこにも少子高齢化の波が押し寄せています。
通過儀礼としての対馬六観音まいりの復活は難しいと思いますが、現代風にアレンジし、対馬の歴史・文化・信仰を知る仕組みとして、六観音まいりを活用できないかな、と思っています。
ご案内いただいた寿福院の大西住職様、参加者の皆様、ありがとうございました!
参考書籍: 対馬六観音(阿比留徳勇)、対馬拾遺(日野義彦)