
日露戦争120周年・竹敷海軍要港部・対馬の砲台について
こんにちは、最近ブログが長い、でおなじみのエヌです。
さて、観光イベントや講座を考える際、歴史や観光地に絡んだ「周年」というものがあると企画しやすくなります。
たとえば、昨年は元寇750年(1274~)、今年は昭和100年(1926~)、終戦80年(1945~)など。
できるだけ対馬に絡むもの・・・と考えると、今年は日露戦争120周年(1904年開戦~1905年終戦)ですね。
ということで、日露戦争と竹敷海軍要港部と対馬の砲台について振り返ってみます。(強引!)
坂の上の雲(司馬遼太郎)
2009年~2011年の年末にNHKで放送された「坂の上の雲」が、毎週日曜23:00から再編集・再放送されていることはご存じでしょうか?
軍人の秋山好古(よしふる)と真之(さねゆき)の兄弟(阿部寛さん、本木雅弘さん)と俳人・正岡子規(香川照之さん)を主人公に、開化期を迎えたばかりの「まことに小さな国(日本)」が欧米列強に並ぶべく「坂の上の雲」を目指した明治期の群像を描いた、司馬遼太郎さんの歴史小説の実写映像化です。
同作で宿敵として描かれるロシア(広瀬少佐とロシア側の愛・信頼も描かれますが)は、歴史的に南下政策をとっており、幕末には、軍事拠点を求めて対馬の芋崎(いもざき)を半年間不法占拠するという大事件「ポサドニック号事件」を起こします。
明治維新後、対馬を視察した伊藤博文・山縣有朋・大山巌らはすぐに浅茅湾(あそうわん)の軍事的重要性に気づき、対馬要塞の建設を決定します。
首都・東京(湾)が最終防衛ラインで、その最前線が国境の島・対馬だったのです。
二〇三高地を攻略したのは対馬の28センチ榴弾砲?
「坂の上の雲」の2/2(日)、2/9(日)放送分は、二〇三高地攻略戦(クライマックス!)で、当時の最強兵器・28センチ榴弾砲が登場します。

>> フリー素材サイト イラストAC より 金時さん のイラスト
本来は、海岸部の高地に設置し、海上の敵軍艦を攻撃する大砲(対馬では、城山砲台4門、姫神山砲台6門ほか多数)なのですが、旅順攻略戦に際し、日本本土から18門を移設して砲弾の雨を降らせ、戦争の局面を変えることになります。

この巨砲を国内のどこから運んだのか、気になっていたのですが、以下の記事によると、うち6門は対馬からのようです。
>> 日露戦争と二十八サンチ榴弾砲考
(県立観音崎公園フィールドレンジャー安田 昭 2009.7.23)
当時の対馬には、ロシアのバルチック艦隊の接近に備え、浅茅湾の中央部に置かれた28センチ榴弾砲を西側の尾崎半島に移動させる計画がありました。その大砲を旅順に転用し、対馬には下関のものを補充したようです。

尾崎の三砲台(郷山砲台・多功崎砲台・樫岳砲台)が完成したのは日露戦争終結後でした。
写真は、三砲台の分岐点にある「戍兵精鋭三塁成」の石碑なのですが、めちゃめちゃ大きくて、間に合わなかった悔しさが秘められているような・・・。
明治期の対馬の砲台が守っていたもの
浅茅湾は古代から天然の良港で、軍港としての利用価値も高く、日清戦争後の明治29年、日本海軍初の要港部が竹敷(美津島町)に設置されました。
(「要港」は、横須賀・呉・佐世保・舞鶴などの「軍港」に次ぐ軍事港湾です)

明治期の砲台は竹敷要港部を守るように配置されているのですが、対馬の海軍基地を陸軍の砲台が守っていたこと、また陸軍の拠点もあった市街地・厳原(いづはら)は守らなくてよかったのか(計画はあったようです)、などちょっと不思議な感じです。

さて、要港部の前身は対馬水雷隊らしく、そこに「鈴木貫太郎」が所属しておりました。
明治27~28年の日清戦争では、水雷艇長として威海衛の戦いなどに参加し、小さな水雷艇の魚雷攻撃で戦艦を破壊するという戦果を挙げ、水雷艇の重要性を世界に知らしめました。
明治37~38年の日露戦争では駆逐隊司令として竹敷におり、日本海海戦(対馬沖海戦)で大ダメージをを負ったバルチック艦隊を追撃し、大きな戦果をあげます。
その後、昭和天皇の侍従長となるも、二・二六事件では青年将校に襲撃されて九死に一生を得ます。
1945年4月、昭和天皇に懇請されて77歳で総理大臣に就任し、終戦工作に尽力し、8月15日を迎え、2日後に内閣総辞職。
若き日に竹敷で日清戦争・日露戦争を戦った叩き上げの軍人が、戦時体制最後の総理大臣となって戦争を終わらせる(坂の上の雲の果て・・・)、という数奇な運命でした。
>> 鈴木貫太郎 (Wikipedia)
終戦の日・8月15日の鈴木貫太郎については、半藤一利さんのノンフィクション「日本のいちばん長い日」あるいはその映画作品(1967年/2015年)をご覧ください。

ちなみに、要港部跡には現在、海上自衛隊・対馬防備隊本部が置かれていますが、2008年に隣接地に韓国資本のホテルが建ち、敷地内に平成の天皇皇后両陛下の行幸啓記念の碑があったこともあり、大問題に発展しました。

平成2年5月に両陛下が訪問された「大洋真珠」の施設が、同13年に閉鎖し、跡地に韓国資本のホテルが建設されたのです。

現在、行幸啓記念の碑は海上自衛隊の敷地内に移設され、その横には・・・。

陸坊・海防・対馬要塞地帯標がまとめて設置されています(マニアに嬉しい配慮)。

さらに、同ホテル・敷地は日本人のオーナーさんが買い取り、今年2月にはグランピング施設を併設して、リニューアルオープンされるとのことです。


明治期の石積みの護岸やレンガの建物など、近代遺産として見どころが多く、スタッフの皆さんも、自分たちもこの場所の歴史や価値を学びたい、観光客や地元の方にも親しんでほしい、とのことでした。
>> 対馬リゾート (WEBサイト)

ちなみに、対馬空港にも行幸啓記念の碑があります。
講座「対馬は砲台の博物館」
さて、幕末から昭和にかけて、対馬には30を超える砲台跡、海軍の要港部などの多くの施設が築かれ、それらは対馬・日本の歴史を語る近代遺構と呼ぶべきものです。
ただ、その多くは(木々に埋もれて)静かに眠りについており、遺構の理解促進や保存、活用のためには、まず我々がそれらについて学び、多くの人に知っていただきたい、と考えています。
そこで!
2025年3月4日(火)、防衛大学校の由良富士雄先生を対馬にお招きし、「対馬は砲台の博物館」講座が開催されます!
(主催:対馬市教育委員会文化財課、協力:一般社団法人 対馬観光物産協会)
軍事遺跡は戦争の負の遺産として見られることが多いのですが、それらから目を背けていると、また同じことを繰り返しかねません。
今年は日露戦争120周年(覚えてました?)ということもあり、「坂の上の雲」を見て、講座に参加し、戦争と平和について考えてみませんか?