お船江

「朝鮮通信使に関する記録」の「世界の記憶」登録について

2021/07/13対馬の歴史

 こんにちは、局長Nです。

 「朝鮮通信使」がNHKなど全国放送で取り上げられていますね~。

 いや、「世界の記憶」の正式発表があったら記事を公開しようと思っていたのですが、報道が早いのでもう公開します(^^;)

 さて、日本で世界遺産といえば屋久島(自然遺産)や姫路城(文化遺産)などがあり、また無形文化遺産には「和食」などの伝統文化・習慣が選定されていますが、「世界の記憶」はちょっと耳慣れない言葉です。

 「世界記憶遺産」とも呼称され、価値ある歴史的記録物(古文書など)を保存・公開することを目的としたユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の事業なのですが、以下、今回の経緯や内容をできるだけわかりやすく書いてみます。

 今回申請されているのは、「朝鮮通信使に関する記録」

 発端は、2012年5月5日に「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会釜山大会」が開催された際、財団法人 釜山文化財団(以下、釜山文化財団)から、ユネスコの記憶遺産への日韓共同登録推進が提案されたこと。

 同年より対馬市や釜山市でユネスコ共同登録への講演会・シンポジウムなどが開催され、日韓政府レベルでの共同申請を模索しますが、日韓関係の悪化(2012年8月の李明博(イ・ミョンバク)大統領による竹島上陸など)もあり、NPO法人 朝鮮通信使縁地連絡協議会(以下、縁地連と略)と釜山文化財団を主体とした民間中心の共同申請を目指すことになります。

 ちなみに縁地連は、江戸時代に朝鮮通信使が往来した九州~関東の19の関連自治体(対馬市、日光市、京都市など)や、朝鮮通信使行列振興会などの70の民間団体、約100名の個人で構成されています。

申請書調印式

 その後、関連自治体での組織の設立・協議・申請資料の検討などが重ねられ、2016年1月29日、対馬市で「朝鮮通信使ユネスコ世界記憶遺産日韓共同申請書調印式」が開催されました。

 同年3月30日にユネスコに申請書が提出され、1年半を経て、国際諮問委員会による審査の結果がまもなく発表される、ということになります。

※追記 2017/10/31、正式に発表されました!

 申請案件名は、

「朝鮮通信使に関する記録 ‐ 17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」
 申請者は、NPO法人 朝鮮通信使縁地連絡協議会 と 財団法人 釜山文化財団。

 内容は、1607年から1811年の間に12回、朝鮮国から日本国に派遣された外交使節団に関するもので、

  1. 外交記録・・・朝鮮国王から徳川将軍への国書(対馬藩により改ざんされたものも含まれる)など、
  2. 旅程の記録・・・通信使に関する各藩の記録、通信使を描いた絵巻など、
  3. 文化交流の記録・・・通信使の詩書など、

 で、日本・韓国双方の資料が対象となっています。

 日本側の資料総数は48件209点(うち、外交記録3件19点、旅程27件69点、文化交流18件121点)、韓国側は総数63件124点(外交2件32点、旅程38件67点、文化23件25点)です。

 時代背景としては、
■ 文禄慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)により日朝関係が致命的に悪化。

■ 新たに天下人となった徳川家康、農地が少なく交易が命綱の対馬、北方の女真族の脅威にさらされる朝鮮など、それぞれの事情により和平を模索。

■ 初代対馬藩主・宗 義智(そう よしとし)による外交交渉が始まるが、家康から先に国書を出す(謝罪を意味する)という難題に直面し、宗家による「国書偽造」が行われる。

■ 朝鮮から江戸幕府へ「回答兼刷還使」が派遣される。目的は、国書による回答(謝罪要求)、文禄慶長の役の捕虜の送還など。

■ 二代藩主・宗 義成の時代に、柳川一件(対馬藩家老による国書偽造の暴露、いまで言う内部告発)が発生し、徳川家光(三代将軍)直々の裁判により、宗家は安堵される。

■ 戦後処理が一段落し、回答兼刷還使が「通信使」となり、徳川将軍の襲名や世継ぎ誕生のお祝いを名目に派遣されるようになる。

■ 江戸元禄時代、倭館(釜山の龍頭山周辺にあった対馬藩の出先機関で、面積は10万坪)を拠点とする朝鮮貿易により対馬藩は空前の賑わいをみせ、城下町整備や有能な儒学者の起用など政治・経済・外交など様々な面で爛熟期を迎える。

■ 通信使の来日は数十年に一度であり、幕府は政権の権威付け、朝鮮は日本の内情視察、対馬は外交能力の誇示などさまざまな利害が合致したこともあり、その盛大なパレードは庶民から文人まで熱狂的に歓迎され、文化交流も行われる。

■ やがて、莫大な経費を必要とする通信使の派遣は日朝両国の負担となり、12回目の通信使派遣の際は対馬で国書が交換され、以降、通信使の派遣は途絶える。

 朝鮮通信使が往来した200年間、日朝両国間で戦争は起きませんでした。

 申請書ではその意義を、

「朝鮮通信使に関する記録は、外交記録、旅程の記録、文化交流の記録からなる総合資産であり、朝鮮通信使が往来する両国の人々の憎しみや誤解を解き、相互理解を深め、外交のみならず学術、芸術、産業、文化などさまざまな分野において活発に交流がなされた成果である」
「この記録には悲惨な戦争を経験した両国が平和な時代を構築し、これを維持していくための方法と知恵が凝縮されており、「誠信交隣」を共通の交流理念として、対等な立場で相手を尊重する異民族間の交流を具現化したものである。その結果、両国はもとより東アジア地域にも政治的な安定をもたらしたとともに、交易ルートも長期間、安定的に確保することができた」

 としています。

 残念なことに、「朝鮮国信使絵巻」などを保管する長崎県立対馬歴史民俗資料館は、新博物館建設のためこの4月より閉館しており、2020年(予定)の開館を待つ状況です。

 対馬市では次年度から説明板などの整備を行う予定であり、当協会としては「朝鮮通信使に関する記録」や日本遺産などをテーマとする観光案内・ガイドの充実を図っていきます。

 厳原港周辺だけでも、

清水山城

 清水山城(しみずやまじょう)

 文禄慶長の役に際して築かれた戦国末期の山城。良好な石積み遺構が見られ、国の史跡に指定。

万松院

 万松院(ばんしょういん)

 初代対馬藩主・宗 義智のために、子の義成が建立した宗家の菩提寺。国史跡。

金石城

 金石城跡(かねいしじょうあと)

 清水山のふもと、万松院に隣接する宗家の城跡。国史跡。

金石城庭園

 旧金石城庭園(きゅうかねいしじょうていえん)

 金石城・万松院に隣接する宗家の庭園。国名勝。

お船江

 お船江(ふなえ)

 江戸時代の藩の船着場。県指定史跡。

 などなど、朝鮮通信使関連の史跡は枚挙にいとまがありません。

 古代から近現代まで、国境の島・対馬には外国との交流と緊張に満ちた濃密な時間が流れており、「朝鮮通信使に関する記録」もその一部です。

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