ポサドニック号事件と伝説の工兵・時尾善三郎のお話

メディア,対馬砲台群

 こんにちは、

 2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」で、

 ロシア艦ポサドニック号の船長「ビリリョフ」を

 阿部寛さんが演じることになったことを

 NHK公式サイトが公表し

 主人公・小栗 忠順(おぐりただまさ・松坂桃李さん)
 ライバル・勝海舟(かつかいしゅう。大沢たかおさん)
 難敵・ビリリョフ(阿部寛さん。違和感なさそう)かあー!

 すごい!!

 という夢を見たエヌです。

 さて!

 対馬楽講座の翌日、講師の萩原さちこさんのリクエストでポサドニック号(以下、ポ号と略)事件の舞台・芋崎(しぶいっ!)を訪問しましたので、レポートです。

芋崎をめぐる

ポサドニック号事件

 さて、ポ号事件とは、幕末の1861年(文久元年)に、ロシア軍艦ポ号が、対馬の中央に広がる浅茅湾(あそうわん)の一角・芋崎 を半年間にわたって占拠した、というもの。

 当時、イギリス帝国とロシア帝国はアジアの派遣を争う「グレートゲーム」を繰り広げており、対馬がその最前線の舞台になってしまったのです。

 対馬藩の粘り強い交渉、外国奉行・小栗忠順の来島、さらにイギリスの圧力やロシア内の事情もありポ号は撤退しますが、同事件がきっかけで対馬の軍事的重要性は決定的となり、のちの要塞化につながっていきます。

 (大河にも登場しますよ!たぶん!)

 さて、これらの歴史の現場「芋崎」へ。

 登り口は、対馬市美津島町昼ヶ浦への道路脇にあります。
 「美津島町の自然と文化を守る会」が平成17年3月に設置した「ロシア軍艦泊留置案内板」が目印です。

登り口: 長崎県対馬市美津島町昼ヶ浦 >> Googleマップ

 「芋崎砲台」は明治20年代(日清戦争)に建設され、30年代(日露戦争)に改造されました。
 明治期の軍道(馬車道)が砲台跡まで続いています。

 軍道を通すため、岩盤(泥岩)を掘削しています。
 金田城の堅硬な石英斑岩よりは掘りやすそうですが、過酷な作業だったでしょうね。

 砲台へ続く道の、木漏れ日と落ち葉。よい雰囲気です。

 芋崎砲台近くから左折して海岸へ降りると、ロシア軍艦泊留地(ロシアの井戸)です。

 石積みがあると目を輝かせて見入ってしまう萩原さん(笑)

 「文久元年魯寇之碑」(昭和3年2月建立。文久元年は1861年)。

 幕末にロシア軍艦ポサドニック号の船員が掘ったとされる「ロシア軍掘削井戸」。
(漂着ゴミがひどい・・・)

 NHKスペシャル「新・幕末史 グローバル・ヒストリー 『第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機』」(2022年)では、冒頭でポサドニック号事件が描かれ、このあたりにロシア軍の建造物がCGで再現されていました。

 海中に石積み(桟橋跡)があるのがわかりますか?(写真は2025年9月16日撮影)

明治から昭和の数奇な運命が刻まれた「芋崎砲台」

 海岸から登り直し、芋崎砲台へ。

 高所に築かれることが多い砲台には、よく井戸が併設されています。

 棲息掩蔽部(弾薬庫)の「第一號(号)」。
 扁額には、明治20年4月起工、21年9月竣工、工兵長 時尾善三郎(ときお ぜんざぶろう)の文字が刻まれています。

 対馬には明治20年代の砲台が4つ(大石浦、温江、大平(低)、芋崎)あり、いずれも時尾善三郎が指揮しています。

 第1期の砲台は、現地の石材を多用し、レンガを使っていないことが特徴なのですが(輸送の問題?)、レンガ製構造物や左右の観測所は、明治30年代に追加・改造されたようです。
 発射時に衝撃を受ける砲床部分に、堅硬な花崗岩ではなくレンガが使われている(しかも右端の1座のみ)など、ちょっと不思議です。

 芋崎は、幕末はロシアの活動拠点、明治期には砲台、そして昭和には対航空機用の高射砲座が設置されました。
 この地を守っていた豊島部隊は昭和17年に対馬を去ったようで、大きな記念碑が残されています。

「大東亜戦守備之地 豊島部隊 昭和十七年秋」

 その後、長崎・金比羅山高射砲陣地に移転し、原爆により壊滅的な打撃を受けるという悲劇に見舞われます。

 芋崎は、幕末から昭和にかけての対馬の数奇な運命を、いまに伝えていました。

伝説の工兵・時尾善三郎

 対馬の砲台は、

  • 第1期(明治20年代) 芋崎など4砲台
  • 第2期(明治30年代) 姫神山砲台など14砲台
  • 第3期(大正~昭和) 豊砲台など13砲台

 の合計31砲台に分類されています。

 そのうち、第1期砲台建設に欠かせない人物が工兵長「時尾善三郎」です。

 通常、国家事業である砲台に個人名が刻まれることはないのですが(対馬内外で他の事例はないようです)、対馬最初期の4砲台(芋崎・温江・大平(低)・大石浦)には堂々と彼の名前が掲げられています。

 どんな人物だったのか、気になったので調べてみると・・・

略歴

  • 1853年4月17日(嘉永6年3月10日) 備前国邑久郡(現在の岡山県瀬戸内市)に生まれる。
  • 1874年(明治7年) 陸軍教導団工兵科(下士官養成)に入学、西南戦争に出征し、負傷。
  • 1887年(明治20年)~ 対馬の4か所の砲台を1年半あまりで完成させる。(当時、1つの砲台建造に3年かかるとされた)
  • 1893年(明治26年)~ 由良要塞(紀伊水道)由良支署長。
  • 1898年(明治31年)~ 舞鶴要塞(日本海)舞鶴支署長。
  • 1899年(明治32年)~ 東京湾要塞の第二海保・第三海保の人工島造成・基礎工事に従事。
  • 日露戦争に従軍し、朝鮮半島の馬山浦(マサンポ)鉄道の構築に従事。
  • 1904年(明治37年) 陸軍工兵大佐に昇進(最終階位)。
  • 1908年(明治41年) 陸軍を退役し、統監府(1910年から朝鮮総督府)営林廠長に就任。
  • 1914年(大正3年) 病気のため依願退官。

明治という時代と時尾善三郎

 明治時代は、開国まもない日本が、列強の脅威にさらされながら、清・ロシアという大国と対峙した時代でした。
 現場叩き上げの技術者として、また工兵のスペシャリストとして、最初期の対馬要塞建造や、前例のない東京湾要塞の海保築造など数々の難工事に挑んだ時尾善三郎は、土木・建設・砲台の時代でもあった「明治」を代表する人物の一人だったのです。